ささやかなもの。

私が20年かけてたどり着いた場所は、平和な世界だった。
私が心の底から求め続けたものの姿を、私は最近、ようやく知った。

平和だ。


朝、猫が鳴く。
夫が起きる。
猫と夫がしばらくわちゃわちゃした後、夫はでかけていく。

今度は猫が私を起こそうと騒ぎだす。
うさぎも騒ぎだす。

猫とうさぎに朝ごはんを食べさせ、その間にブログを書く。
彼らをベランダで遊ばせる。

彼らはひとしきり遊ぶと眠る。
私は仕事で出かける日は出かける支度をするし、出かけなければ本を読んだり、勉強したり、文章を書いたり、パソコンで仕事したりする。

時々、友人と会ったり、電話で話したりする。
家族とたまに電話したり、メールしたりする。
夫の母と月に一回くらいお茶をする。


出かけて帰ってくると、猫が大騒ぎをする。

夜、夫が帰ってくる。
猫を夫に押し付ける。

夫が猫の遊び相手をさせられているのを横目で見て楽しむ。


友人達もいろいろあったが、みんな幸せになった。
ひとり、心配していた人がいたが、最近、落ち着いた。
みな、いろいろ抱えているものはあるが、大丈夫。



私の世界からは、争い事がまるで消えた。
長い時間をかけて、争いが好きな人をことごとく遠ざけたのはあるけれど。

私は、争わない方法で、自分の望みを叶える方法を見つけた。
そのために、自分の中では、数年の間、静かな戦いが続いていた。


私が望んだものは、非常にささやかなものだった。

しかし、このささやかなものを手に入れるためには、20年の月日が必要だった。
ひとりでは成し遂げられず、ほとんど奇跡に近いような気分になることがある。


願いの話になる時、ささやかな願いは、取り上げられにくい。

だけれども、私は知ってる。

このささやかなものを、どんな成功よりも望む人が数多くいること。

傍目には大成功している人が、このささやかなものが手に入らないともがくこともあること。

ささやかなものは、時に、大層なことに祭り上げられていることもある。
しかし、実にささやかだ。

願いがかなったことを、すぐに忘れてしまうくらいささやかだ。
感謝し続けることも難しいくらい。

大願成就は、こんなに地味なものかと拍子抜けする。

私の願いは、無理だと言った人も、過去にはたくさんいた。
私の願いは、他者が関係していたから。
私は、自分だけが平和で幸せであることは、望まなかった。
全部捨てて環境を作るやり方もあったが、私はそれは選ばなかった。

そんなのつまらないからだ。
そちらの方が簡単なのは知っていた。
でも、ゲームは難しい方が面白い。

私は、はた迷惑な人だ。



そして。

まだ抱えている願いがいくつかある。
ここに書いたものもあるし、書いていないものもある。
進んでいるものもあるし、止まっているものもある。
新しく生まれたものもある。


私が学んだことは、自分が願う気持ちは20年間くらいなら持続するということ。


そして。

今書いているものの最後にもう一度書くけれど、私が学んだ最大のことは。

願いを叶えるには、諦めないことだ。

誰がなんといおうとも、それが自分の願いなら、諦めないこと。

願いは叶うか叶わないかだけが重要なわけではなく、願いを抱いているということが、すでに作用する。
だから、多くの技法は、目的やゴール、望みを先に抱かせるように作られている。
多くの宗教は、願わせる。祈らせる。
未来を。


願いを抱くことは、人の心を救うだけでなく、現実を変える。

それが、どんなにささやかなものでも。