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この願いはこのような道筋で叶えたい。

願いが叶いにくい人の特徴は、道筋まで願うことだ。

願いが叶いにくい人は、イメージの世界と現実の違いがよく理解できていない。
それで、道筋を指定する。


例えば、このような願いなら道筋の指定は可能だ。
道筋の途中にある願いを叶えるというか。

明日の朝起きたら、シャワーを浴びていい気分になってから、パンを焼いて、焼きたてのトーストを食べたい。

願いは、焼きたてのトーストを食べたい。
道筋は、明日の朝起きる、シャワーを浴びる、パンを焼く。

これはよほど何かない限り、いとも簡単に叶う願いだろう。


では、例えばこちらは?

好きな仕事をして、ワクワクしながら、1000万円年収が欲しい。

願いは1000万円の年収。
道筋にあるのが、好きな仕事をする、ワクワクする。

割とたくさんの人が願いそうな願いだが、たくさんの人が願う願いは、叶いにくいから、たくさんの人が願う。
叶えている人は、願わない。
ただ、その現実の中にいる。


パンを食べる願いと、1000万円の年収の願い。
2つの願いの道筋の違いは、そこに必要な登場人物の人数。

願いが叶いにくい人が、イメージと現実の違いが理解できていないと書いたのはそれでだ。

イメージの中では、願いは、1人で叶う。
自分の頭の中で。
だから、願いが叶いにくい人は、まるで自分ひとりで願いを叶えることができると信じているような振る舞いをする。


しかし、現実として。

それを現実にする時、その願いが、明日の朝、パンを食べるというような自分ひとりで完結できる願いでなければ、そこには必ず、自分以外の登場人物がからんでくる。

自分以外の人は、どのような動きをするか、願う時点では把握できない。
もし把握できると思っている人がいるなら、その人の願いが叶わない理由はそこだ。
他者をコントロールできると思っていることだ。

自分以外の人がその道筋に登場する願いの場合は、道筋を指定すればするほど、願いの実現は難しくなる。

また、例えば、1000万円の年収が欲しい、という時、欲しいものがお金なのであれば、それを得る方法は、仕事だけとは限らない。
好きな仕事をしたい、という望みを道筋に絡めることで、手段は、好きな仕事に限定される。

願いについては、人間は非常にちゃんと言葉を理解しようとする。
だから、手段を限定することは、可能性を自ら狭めることになる。

また、その願いの話を聞いた協力者となり得た人の耳に、道筋だけが残る場合がある。
この例なら、好きな仕事がしたい、ワクワクしたい、の部分だ。

1000万円の年収が欲しいが、聞いた人の耳にもし残ったなら、聞けた話が聞けなくなる可能性はある。


願いが叶う道筋は、びっくり仰天、その手があったか!みたいなことが多々あると、願いが叶いやすい人たちはよく言う。
これは想像できなかった、と。



もし願いの道筋について考えるのであれば、現時点から考えるのではなく、願いが達成された時点から逆算して考えることは可能だ。

その願いが叶う前に何が起きるか。

また、道筋で、自分がしたいことではなく、自分がやる必要があることを考えることも可能だ。
願いが叶いにくい人は、それが漏れていることが多い。

願い自体は、誰でも、やりたいこと、欲しいことだが、叶いやすい人は、その道筋には、やりたいことや欲しいことを突っ込まない。
そこは、自分だけでは決められないと諦めていることが多い。
委ねているというか。
信じているというか。
人それぞれの感覚だろうが、あまり、こだわりを発揮しない。


私が観察してきた限りでは、願いが叶いにくい人は、道筋の快適さへのこだわりが強いことがあるように見える。
快適でない時、ワクワクしないからこれは願いに続く道ではないと手放す傾向も強い。
ずっとワクワクし続けられるのは、イメージの世界だけだ。

やりたいことだけ努力して、願いを叶えようとすることは、ほぼ無理に近いのではないかと思われる。
好きなことだけしていたら願いが叶いました!という人がもし側にいたら、細かく細かく話を聞いてみるといいかもしれない。

その人が好きじゃないことを代わりにしてくれた、その人が好きじゃないことが好きだった人がそばにいたか、または、好きじゃないことを好きになる努力をしたか、または、何か、あるはずだから。
進んでは話さないだろうけれど。


自分ひとりで叶えられる願いなど、現実にはほとんどないということを理解すれば、道筋にこだわることは、ほとんど不可能に近いということに気づくかもしれない。


または。

本当は、その道筋自体が願いであって、願いとして掲げたものは、イメージの世界だけに存在できる幻の夢ということもあるかもしれない。