幸せ*2

何を幸せというかはみな違うということは、最初の時点で気がついていた。
そもそも、みんながバラバラな幸せを言うから、私は考え始めたのだから。

それで、「幸せになりたい」とか「幸せになるために」とか「幸せな未来」というような表現を見ると、謎は深まるばかりだった。

みな、幸せだと感じるタイミングも、幸せについてもバラバラのことをいうけれど、それらの表現は、まるで、たったひとつの確かな幸せというものがあるかのように見えたからだ。

私が知らないたったひとつのもの。


やがて、私は、幸せを理解する前に、不幸を理解することになった。
自分にとって、何が不幸か。

それは絶望だ。

それを知った頃、毎日、思った。
私は生きている意味がない。
私はこの世に不要な人間だ。

私は知った。
これまで、私が、不幸だと思ったり、感じたりしてきたことは、不幸じゃない。
これが私にとっての不幸だ。
自分がこの世に不要な人間だと感じること、それが不幸。

そして、私には死が希望の光に見えた。
いやはや、病気ってすごい。


不幸を知った後、私は思った。
あの状態以外は、全部幸せだ。
朝起きて、死にたくなければ上出来だ。

それ以来、私は、ほとんど毎日、幸せになった。
何にでも感謝できる。
悩みすら嬉しい。
問題発生すら気合いが入る。

なぜなら、それらで悩んだり苦しんだりするのは、生きていくという前提が自分の中にあるからだ。
つまり、どんなに苦しかろうが、自分は絶望はしていないのだ。

私は、それがどんな感情であれ、全てをひっくるめて、ただひとつの例外、死にたいという感情以外を感じている時を除いては、私は幸せだ、と思った。

私の不幸はただひとつ。
それ以外は幸せだ。
まだ明日を生きるつもりでいる。
希望がそこにある。

そう思った。
これは今も変わっていない。
私が命がけで手に入れた宝物だ。


それから後、理由や状態は様々だが、私は、どん底の状態を見た人達と時折出会うようになった。

彼らはみな、同じことを言った。

一度、どん底を見てくれば、普通で何もないことがどれほど幸せかわかる。
みな、一度、底まで落ちるのが早い。
中途半端に落ちるからしんどいんだ。
這い上がるしかない場所までいけば、後は登るしかない。


ただし、その後、これも必ず同じことを言った。

でも、この方法は強い人にしか使えない。
絶望の持つ力はすごい。
何かが弱ければ、死んでしまうかもしれない。
だから、あんまりおすすめできないな。

そして、これまた同じように、その後、必ず大笑いした。


それはまた、当時の私の心境と同じでもあった。

なんにもないことは、むちゃくちゃ幸せなこと。
悩めることは幸せなこと。
苦しめることも幸せなこと。
生きているって幸せなこと。


この状態が数年続いた。