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私が観察しつづけたところ、願いが叶いやすい人と願いが叶いにくい人の間に、大きな違いはひとつもなかった。

そこにあったのは、小さな違いばかりだった。
小さな些細な違い。

願いが叶いやすい人が必ず幸せそうかというと、それもまた違った。
幸せは幸せで、それを感じる力がいる。

願いが叶いにくい人でも、幸せそうな人はいくらでもいた。

ただ、願いが叶いにくい人は、中途半端に幸せそうなことが多く、これは、願いが叶いやすい幸せそうな人には見られないことだった。

また、願いが叶いやすい人は、幸せそうでなくとも、どこか生きる力みたいなものを感じさせる人が多かった。
うまくいかないことも、他人のせいにはしない傾向も見られた。
自分が望んだ結果をいつでも生きていて、それが例え幸せでなかったとしても、納得はしているからだろうと推測した。

願いが叶いにくい人は、人生への納得度が低いように見えることが多かった。
自ずと不満は口に出る。


また、私が気がついた違いは、願いを叶える人と願いを叶えにくい人が、何かを行動するときに、それを欲求として扱うか、義務として扱うかという違いだった。

例えば、健康。

願いを叶えやすい人は、「健康でいたい」と言う。
願いを叶えにくい人は、「健康でいなければいけない」と言う。

前者は願い、望みで、後者は義務だ。
おそらく、後者も健康でいたいという願いがそこにあるのだろうが、しかし、願いと義務は違う。
同じことを表現しているが、認識に違いがある。

義務をこなすか、願いを叶えるか。
どちらのための行動をとっているかは、その行動にもたらす喜びが異なる。

もちろん、義務をこなしたい、という願いを持つ人には、義務をこなすことは喜びだろう。
しかし、私が観察してきた限り、新たな義務をこなすことに喜びを感じる人は多くないようだった。

大人はみな、すでに、多くの義務を抱えている。
子供は、義務をクリアすることは、もしかしたら、喜びの場合もあるかもしれない。
子供が抱える義務は、そんなに多くない。


また、義務はそれができなかった時、罪悪感を生むことがある。

ただ、願いが叶わなかっただけなら、残念、、、ですむ話だ。
義務がこなせなかった時、自らを責める傾向を持つ人は割といる。


何かが浮かんだ時、それはしなければならないことなのか、それともそこには自分の願いを含むのか、考えてみることは助けになるかもしれない。
もしも、義務ではない願いだなと感じたら、それを自分の中で、〜したい、〜欲しいに文末を置き換えれば、義務から願いへのスイッチは完了だ。

義務にすり替わりやすい願いは、山のようにある。

試しに、ネットニュースでもさらってみると、〜すべき、〜あるべき、〜ならない、というフレーズは腐るほど見つけることができる。
それは、書き手の願いなのか、それとも義務なのか、眺めてみるとなかなか興味深い。

ちなみに、日本でわかりやすいのは、健康、結婚、ジェンダー、憲法、環境などいろいろと転がっている。
社会に関わることは、義務と願いが曖昧になりやすい。
コメンテーター、評論家の書いたものが、参考にしやすいかもしれない。