命の尊厳

昨日、ああ、これが、私が本当に本気で怒っている状態だ、と感じる出来事があった。
私は、腹を立てたのではなく、怒った。

私の大事な存在の命を、危険にさらせと言われて。

相手には全く悪意はない。
凝り固まった正義が発端の善意で、自分が言っていることが何を意味するのか、まともな判断ができなくなっているだけだ。
何か正義に夢中になる人によくある話だ。

我が家の猫のうち、2匹は、もともと野良猫の保護猫だ。
お母さんと一緒だったところを、人間が捕まえ、お母さんを避妊手術するために、人間の手でお母さんと引き離された。
保健所で殺される猫を減らすための活動ということだった。

彼らは、引き取り先が見つからず、家を二軒経由した後、私の家にやってきた。
引き取る条件は、避妊手術をすること。


やってきたとき、彼らははげしく人間不信だった。
今でも人の足音を怖がる。

1匹は体調が悪かった。

彼らは、やってきた三日目に、もともと避妊手術の予定を入れられていたのだが、私はキャンセルした。
この状態で手術をしたら、あまりに彼らが辛すぎるだろうと考えたからだった。

体調も悪い。
懐いてもいないし、きっとまた捨てられたような気分になる。
まだ小さいのに、術後も知らない場所で、ひとりで痛みに耐えねばならない。
そしてきっと、懐かないまま、ただ生きているだけの猫になる。


それから、私は何軒か病院を回って避妊手術について調べた。
そして、彼らの体が十分に大きくなるまで待つことにした。
彼らがうちに慣れて、うちが安心して術後に過ごせる場所になるまでにも、それくらい時間がかかるだろうと思った。

彼らは日本の多くの都会の飼い猫と同じように、自由に外を散歩できない。
海外の人には想像できないかもしれないけれど、日本では、今や猫が自由に散歩することは、悪みたいな雰囲気まで漂いはじめている。
猫が外を歩く姿は、ここ数年で、めっきり見なくなった。


我が家の猫もベランダを私の見張りつきでうろちょろする程度だ。
車が多いのと、さらわれたら困るからだ。
というわけで、そもそもオス猫と出会う機会がないから、手術はそう急がなかった。


そして、おととい、そのうち1匹を手術のために病院に預けた。
やがて病院から連絡があった。

麻酔をかけたら、不整脈が出ました。
まだお腹は切っていません。
このまま続けると命が危ないので、一旦、麻酔を覚ましはじめました。
麻酔が覚めたら迎えに来てください。


病院に迎えに行った。
今、落ち着いているからおそらく大丈夫だけど、麻酔が体から抜け切るまでは、少し注意してみていてください、と先生は言った。

麻酔アレルギーか、または、もともと心臓が弱いかどちらかなのだと思います。
お宅はメス猫しかいないし、無理して手術しない方がいいです。

私は、事情を話した。
先生は、では、診断書を書きましょう、と言った。

診断書を渡してくれながら、先生は、多分これで大丈夫だとは思いますが、、、もし、何か言われたら、、、と言い淀んだ。
私は、その時は戦います、と言った。
先生は、そうしてください、この子に避妊手術は勧めません、と言った。


そして、保護団体に診断書を出した。

返ってきた返事をみて、ああ、この人達は猫の命を救いたいのではないのだ、猫を幸せにしたいわけでもないのだ、猫の避妊手術がしたいだけなのだ、と悟った。
避妊手術は手段ではない、避妊手術が目的なのだ、と。

しばらく間を置いて、また、避妊手術してくれとそこには書いてあったからだ。

私の胸の奥が感じたことのない熱さになった。
胸が燃えるんじゃないかくらい。

何を言っているの?
殺せ、と書いてるの?


この猫を避妊手術することで、救える猫の命は1つもない。
今、保健所にいる猫たち、未来に保健所にいる猫たちと、この猫には、何ら関係がない。
むしろ、この猫の避妊手術をすることは、1匹の猫の命を奪う可能性がある。

命をなんだと思ってるんだ、と、私は怒りを覚えた。



救った猫の命はカウントできないが、捕まえた猫の数とした避妊手術の数はカウントできる。
きっとどこかで、何かがおかしくなったのだろう。

そう思った。


私は、淡々とはっきり返事を書いた。
しない、と。

命を軽んじられた怒りは、しばらく胸の中で燃え続けていたが、やがて消えた。


そして、自分が何に本当に怒るのかを私は理解した。

命の尊厳を踏みにじろうとされた時。

人間だけが特別じゃない。