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いろいろ書いてきたけれど、願いが叶わない、叶いにくいという人を観察していた間に、私はある仮説に辿りついた。

物理的に平和な国で平和な環境にいる精神的に健康な大人は、結局、誰もがやりたいように願うように生きてるんじゃないだろうか?
子供は別だ。親と環境での縛りが大きい。


願わなければ願ったように生きられない、ということこそ、単なる昔の刷り込みじゃなかろうか?

願いが叶わない、不満だとぼやく人は、気がついていない他の願いが叶っている状態なのではないだろうか?

自分が欲しくないもの、または、自分が価値を認めてないものを願った結果の中を生きているか、または、幸せを感じる力が弱いのでないだろうか?


願いが叶わず不満ばかり言う人は、不満を言いたいという願いがあるのではないだろうか?
または、人生に不満はつきものという古い思い込みを採用しているか。

そんなことを考えた。


それから、私は観察の視点を変えた。
それぞれの人が、どんな願いを叶えているか?という視点に。

変わりたくない、という願いは非常に多そうな感じがした。
裏にあるのは、現状維持したい、または、安定が好き、という願いや嗜好かな、と推測した。


文句を言いたい、という願いも多い気がした。
裏にあるのは、責任転嫁したい、または、子供でいたいとかかな?と推測した。
または、自分の手をかけずによりよくしたい。


というように、裏にある願いはなんだろね、という視点に変えた。

そして数年経つ頃、みな、やりたいようにやってるなという結論に達した。
観察をやめよう。

願いが叶わないとぼやく人は、ほっとこう。
叶っているけど、気づいてないだけだ、と。
願いを叶えて、幸せや喜びを感じなければならないという義務はない。
願いの種類が違うだけだ、と。
叶って幸せにならないことも、人は願うことがある。

その人の幸せに繋がらないと他の人が思う時、ほとんどの場合、人はわざわざ手を貸さない。
幸せに協力したい人はたくさんいるが、叶って不満を言うに決まってる願いには、人は手を貸さない。
だから、叶いにくくなる。

人は、人を幸せにしたいのだ、基本的には。
人が喜ぶ顔が見たいのだ。

本人すら喜びを感じない願いを叶えるために、他人は手を貸さない。
だから、日頃、文句ばかりいう人は、願いを叶えるという観点から見た場合、損をする。 
叶っても、きっと文句言うよね?

その文句が自分についてでないという保証がどこにある?と人は考えるので、協力者が増えにくい。
願いを叶えやすい人が、自己責任、とか、自分が悪いとか言うのは、それらの人ができた人だからではない。
それらの人は、他人の文句を言い続けることが、自分の願いの実現を遠ざけると知っているだけだ。




そして、みな、やりたいように生きているという考え方をする人は、私が知る限り、増えてきている。
自由の享受の仕方は様々だ、ほっておいていい、と考える人たちだ。



世界は分かれるとかいろいろ言うけど、なんとなく、叶えたい願いの種類で、世界の層は分かれ始めている気がしている。
貧富の格差とかじゃなくて。
すごく多層に。

だから、どんな願いを抱いているかで、周囲にいる人が変わる、きっと。




観察を続けた結果、やがて私は、自分は、自分が幸せになる願いを叶えるために模索する人、または、環境的に願いが叶わない状態にある人の環境を少しでも願いが叶いやすい環境にするために、自分の手と頭を貸したい、そこに私を使って欲しい、と思うようになった。
希望の抱き方すら忘れてしまうような環境だって、たくさんあるのだ。


私の結論としては、日本で、普通に暮らしている大人の願いは、やる気になればみな叶う、だったのだ。
経済的に困難を抱えていたり、肉体的、環境的に困難さえなく、精神的に健康であれば。

諦めなければ。
必要ないものを願わなければ。
自分ひとりで叶えようとしなければ。
自分のやりかたにこだわらなければ。
したい努力ではなく、必要な努力をするならば。
手間と時間をかけるならば。
忍耐したり、タイミングを見計らったりするならば。
人に頭を下げるならば。
人に感謝するならば。

そして、自分も他人の願いを叶えることに協力しようとするならば。

そして、動くならば。


自分が幸せになる願い、自分が喜ぶ願い、自分が好きな願い、自分が笑顔になる願い、そういう種類の願いを願うなら、願いはいくらでも叶う。

それが例え欲を源にしていても。
本音の願いなら。

人は、人を幸せにしたいからだ。


そして、別に、願いを叶えることも、幸せや喜びを感じることも、義務じゃない。
それから、願いには大小ない。
優劣もない。


だからもし、願いを叶えなくちゃ、幸せにならなくちゃ、自己実現しなくちゃ!とかに乗せられて、願いが叶わない!と、しんどい人がいるとしたら、別に義務じゃないので肩の荷は下ろして大丈夫だと思われる。

淡々と穏やかに平凡に生きたい。
それもまた立派な願いだ。