星に願いを*ビジョンと妄想の見分け方(修正版)

私は妄想のプロだ。
そんなものがあるならば。
小学生の頃の日記には、妄想しか書いていないといっても過言ではなく、その後も私の日記には、出来事よりも妄想の方が多く綴られている。

こんなことがあったらいいなあ、こんなだったら面白いのになあ、と綴られたそれらは、時には現実になり、時には現実にはならなかった。

そういうわけで、「イメージすればすべて現実になる」というのは嘘である、と私は自身の経験から知っていた。
ビジョンは現実化するが、妄想は現実化しない。


空の上で鳥になって遊びたいなあ〜、すごく楽しいだろうなあ〜、という小学生の頃の私のお気に入りのイメージは、未だに現実化していない。
今でも覚えているくらい、あんなにはっきりくっきりと空を飛ぶ自分の姿をイメージできたのに。

人間は、道具を使わずに空を飛ぶことはできないので、これははっきり妄想だと大人の私には理解できる。
鳥の「ように」空を飛ぶことはできても、鳥に「なって」空を飛ぶことは、トランスフォームできる能力を持ち合わせない限り、不可能だ。
しかし、「これは妄想だ」と理解しにくい妄想が非常にたくさん存在する。

そして、これは妄想だと気づかずに、どうしてこのイメージは手に入らないのか?と考え続けた私が過去長い間、存在した。



私が長らく抱いた疑問は2つ。

(1)どういう時にそれは現実になり、どういう時にそれは現実にならないのだろう?

(2)どういうイメージが現実になり、どういうイメージは現実にならないのだろう?


私のたどり着いた結論から言うと、現実になるイメージは「自分の目線から眺めたイメージ」で、現実にならないイメージは「俯瞰で見たイメージ」。

簡単に言うと、そのイメージの中に自分のそのままの姿が見えたなら、それは妄想や願望でありビジョンではない可能性が高いということ。

なぜなら、その景色が現実化した時、自分は自分の姿を見ることはないからだ。
自分はその景色の中にいる。
ビジョンは「自分の目線から眺める景色」。

私は、景色の中にあたかも自分がいるように、ビジョンは見る必要があると気がついた。

ビジョンを作る際に、「感情を伴わせること」が必要だということもよく知られている。
必要なその感情は、それを経験するときの感情であって、それを眺めているときの感想ではない。

わあ、楽しいだろう「なあ〜」、ではなく、楽しい、である必要がある。

私にビジョンと妄想の区別を気づかせたのは、クリーンランゲージだった。
クリーンランゲージに出会う以前も、自身が描くイメージが現実になることは普通にあったので、クリーンランゲージだけが特別ということではなかったが、私は疑問を抱いた。

なぜ、クリーンランゲージのセッションで見たビジョンは、すべて現実になるのだろう?

これには理由がいくつかあり、ビジョンの見方だけが関係する訳ではないが、やがて私は気がついた。

クリーンランゲージのセッションでは、メタファーランドスケープの「中」に自分が必ずいるからだ、と。
自分の目線で見えるものについて語り、「感情と体感を味わっているからだ」と。


そうして、私は過去の自分の願いを振り返った。

過去、どうしても叶えたかったイメージがひとつあった。
その中のイメージの一部は現実になった。
一部以外は現実にならなかった。

そのイメージとは。もう時効なのでいいことにして書くけれど。

私の見たイメージは、あるチャペルの前でバルーンリリースをするシーンだった。
自分の結婚式。
自分とその隣に立つある男性の姿が私には見えた。

青空の下。

そこから私は景色の中に入り、自分の手から、空に向かって飛んでいくバルーンを見た。
隣に立つ男性の顔は見えなかった。
私はバルーンと青空だけを見た。


その数年後。

私は、とある神社で、バルーンリリースをした。
青空が広がっていた。
その日は、朝から雨が降っていたけれど、バルーンリリースをした時は晴れていた。

隣にいたのは、私が最初にイメージした時に恋していたのとは別の男性だった。
手の向こうに広がる空とバルーンを見ながら、「この景色は見た事がある」と私は思った。


似たようなことがいくつか重なった。
一部だけが現実化する、という事象。

そして、妄想とビジョンは入り組んで存在するのではないか?とある時期から私は考えるようになった。
そして、クリーンランゲージと出会って以降、俯瞰で見て、自分がそこに存在するイメージをすべて、自分の目線に置き換えてイメージするようにしてみた。

その中で、どうしても自分の目線でイメージできないものは、妄想だと判断するようにした。

やがて、未来をイメージする時、私の中には「自分の姿」は登場しなくなった。
これは、クリーンランゲージのセッションを受け続けていた時期と重なる。

私の中には「自分から見える景色」だけが広がるようになっただ。


そして、ある時見た「青い世界」というメタファーの世界をきっかけに、気持ち悪い事態が発生しはじめた。
恐ろしいスピードで様々なことが現実化しはじめたのだった。

(今、舞台となる世界はまた移動している。)

「青い世界」を舞台に繰り広げられるイメージは、ことごとく現実となり、そして、同時に、私は、あんなに大好きだった「妄想」を手放した。
妄想している時間がなくなってしまったからだ。

また同時に、「自分の目線から見える景色」は自分の中だけで作る必要がないということに気がついた。

ビジョンは、頭や体の中だけで作る必要はないということ。
現実に「自分の目」が見るものはすべて、ビジョンとして使うことができる。


まとめ。

・望む未来のビジョンを作る時は、自分の目線から見た景色を想像する。

・未来を俯瞰でイメージしない。自分の姿が見えるイメージは妄想である可能性が高い。

・未来を「体感する」くせをつける。

・未来に感想を抱かない。未来に感情を抱く。