動き始めたオックスフォード

オックスフォード。

久々に登場のメタファー。
カリフォルニアで、こんな場所が欲しいと願った場所。
家。

イメージ写真があるのだが、なぜか画像が貼れないので省略。

オックスフォードは、私の願いだ。

今住む場所が気に入っていないわけではない。
今住む場所も、自分が気に入って引っ越してきた場所だ。
部屋を見つけてから、それを買うまでの期間が一週間しかなかったので、夫は、中さえ見ずにこの部屋を買った。


ただ、この部屋は、当初、問題回避として登場した部屋だった。

私達が最初に住んだ部屋からは、緑が見えなかった。
前が小学校だったからだ。

私は緑がない環境に弱い。
ちょうどいいのは、緑の多い街中。
緑だけの場所はまた、落ちつかない。

日に日に、私は、窮屈さを感じ始めた。

「緑がない!緑が欲しい!」


しばらくすると、ご近所に大層庭の美しい家が建った。
私はしばらくの間、それで満足した。

しかし、また言い出した。
「緑が欲しい。庭が欲しい」

夫は言った。
「僕らの予算で、大阪市内に庭は無理だ」
私達は、夫の仕事の都合で、中心部から離れられない。
駅から徒歩圏内で、なおかつ、乗り継ぎが便利な場所である必要がある。


私は言った。
「緑が見えないのはしんどい。庭が欲しい」

言い続けて2年。
ある日、私は近所で道に迷った。

道に迷って出た場所は、遊歩道で緑の並木道が続いていた。
そして、その遊歩道沿いにマンションが建っていた。

私は、思った。
こういう場所ならいいのにね。

何気なくマンションを覗くと、どうやら一階には庭があるようだった。

いいじゃない、と私は思った。
そして、よく見ると、どうやら空き部屋がある様子だった。

次の日、私は不動産やさんに行った。
そして知った。
私が見た部屋が、一週間前に売りに出たことを。
すぐ、中を見せてもらった。

私は思った。
これは、私の家だ。

それで、夫に言った。

「いいよ、買おう」と、部屋すら見ずに夫は言った。
即答だった。
それでもう君の文句を聞かなくてすむなら、買おう。
顔は笑っていた。
夫の家に対してのこだわりは2つで、それさえ満たせれば彼はなんでもいい。

駅まで歩ける距離であること。
狭い部屋があること。(彼は狭い部屋が好きだ)

一週間後、部屋は私達のものになり、1カ月後、私達は引っ越した。

私は満足だった。
今も満足している。


満足したら、次の願いが生まれた。
突然。

それがオックスフォードだ。
オックスフォードは、問題回避策として現れたのではない。
純然たる願いだ。

人が、叶って最も幸せを感じる願いは、何も問題がない状態で生まれる願いだ。

オックスフォードは、私の職場と家を兼ねている。


それから3年。

今日、急に住宅展示場を見に行きたくなった。
それで夫と一緒に出かけた。

ひとつ、すごく気に入った家があった。

営業さんがすごく親切でいろいろ教えてくれて、それで、私の中に、具体的なイメージが生まれた。

私が必要としてるものが、今度は、イメージとしてではなく、具体的なこととして生まれ始めた。

空が広いこと。
キッチンは完全に隠れること。
玄関が2つあって、仕事関係の人と家族のスペースが完全に分かれていること。
猫が走り回れること。
楽器を自由に弾けること。
リビングは広いこと。
私は自分の部屋はいらない。
6畳の部屋があること(夫用)
新大阪からも伊丹空港からもアクセスがいいこと。
両方の実家にもアクセスがいいこと。


「いつ頃ご予定ですか?」と当然ながら営業さんは尋ねた。

これくらいの時期、と私は答えた。
するする当たり前のように。
少し先だった。
いつまでにお金を用意すればいいのか、理解した。

「場所はどのあたりですか?」
また営業さんは尋ねた。

この辺かこの辺、と私は言った。

それならば、と営業さんは、それらの地域の特徴を説明してくれた。
それで私は、ああ、こっちかもしれないなと片側をイメージした。


「予算はどれくらいですか?」
また営業さんは尋ねた。

そして笑った。
奥さん、頑張らないといけませんね。

私は笑った。
うん、がんばる、と思った。


いわば、オックスフォードは、先に書いた、私の人生後半全部に関係する2つの願いに対する私への褒美のようなものだ、と私は思った。

馬の鼻先に人参だ。

2つの願いは、自分の願いでもあるが、他人に関わる方が大きい願いだ。
私は、人が喜ぶ顔を見て喜ぶくらいのことで、もしかしたら、顔すら見ない可能性もある。
でも、私はそれを願ったし、願ってる。

私は好きにしてきたし、もはや、自分は何も困ってなければ、個人的にはこれ以上の幸せは望まない。

だから、地球への恩返しみたいな感じ。
ありがとうね、だから、恩返しがしたい、という願い。

年を取りました(笑)
ないんですよ、自分の個人に関わる大きな願いって。。。
一番大きかったのが終わってしまったから。


だから、この2つの願いについては、私は、プロセスが楽しかろうと苦しかろうと、まあ、どちらでもいい。
ものすごく気長に構えているところもある。
タイミングが来るまで平気で待てる。
それがなくとも、私に不足するものはない。

それゆえ、できた人でない私は、苦しかったら投げだす恐れがある。

それらは叶おうが、叶うまいが、私自身はあまり変わらない。
それでなければ満たせないものは、私にはない。


で、馬の鼻先に人参。
そういうことにしたようだ。
ほら、欲しいでしょ?

私は安い人なので、物が簡単にご褒美になる。

私は、オックスフォードという家をぶら下げる。
2つの願いのうち、ひとつが叶えば、オックスフォードは楽勝だ。

願いの1つを、願いであると同時に、オックスフォードの手段として使うことにしたようだった。


どれくらいの期間がんばればいいのかは、営業さんに答えた質問から理解した。

あれは素晴らしい質問だった。


そして、願いを幸せに叶えるためにすることと、願いが叶いそうになったら、次にすることを営業さんは教えてくれた。
知恵の登場だ。

たくさん見て回りなさい、それから、これをしなさい。
覚悟が決まるから。

願いが叶いそうになったら、この営業さんにお願いしようと思った。
協力者の登場だ。


そして、私は思った。
これはいける。

2つのうちの1つの願いをサポートするのは、私の欲だ。

そしてまた、オックスフォードをサポートするのは、その願いの実現だ。

残りひとつの手段とサポートもそれらだ。

願いと願いが絡みあい、互いにサポートやリソース、モチベーションとして働くフォーマットが出来上がった。


住宅展示場を見に行ったら。

歩く、移動する。何かに乗る。
それらの前に進む行動は、願いを前に進めることが多い。

一歩前に進むまで、わからないことも多々あるものだ。


帰ってきたら、夫が言った。
「今じゃないけど、引っ越したいね」

はい、決まった!と私は思ったのだった。

がんばれよ、私。
次の願いは、叶う時は数珠つなぎだ。

少し先になるけれど、それらは、私が願いを認知した3年後、静かに動き始めたのだった。