成長*2

勉強し始めた最初の2、3年はこの疑問はなかった。
私が一緒に勉強していた人たちは、主に学校の先生を生業としている人達だった。
彼らは職場で指示されたか、または、職業的なニーズがきっかけで受講していることが多かった。

授業やワークでは、自分自身を使って練習することになるから、自ずと自分と向き合うことにはなるのだが、彼らの目的自体は、常に現実の何かをよりよくすることにあった。
自分の内面の向上を主体においている人は、見当たらなかった。

参加者の中で、私は最年少だった。
自分を救いたい、なんとかならんかという理由で参加していたのは私くらいなものだった。

その頃、私は病み上がりで、悶々としていた。
仕事はできない。
無理しちゃいけません、疲れちゃいけません、と言われていた。
とにかくゆっくりしていなさい。
会いたい人とだけ会いなさい。
やりたいことだけしなさい。
しんどい日は寝ていなさい。

みんなが私に親切で、みんな、私は生きてればそれだけでいいという扱いだった。
私はすっかりごまめだった。

私は当事者だが、私がやらかしたことは、周囲にも相当なダメージを与えたらしく、ともかく、私が疲れないように、無理しないように、と家族や友人が心を砕いてくれていた。

10分のところに住んでいた母は、一切、姿を現さなかった。
私が、母に会いたくなかったからである。
毎日、当時の夫が、私の実家に母が作った食事を取りに行っていた。

まあ、ごまめもいいところ。
甘やかされ放題だ。

ただ、しかし、生きているだけで精一杯だったのは事実だ。

その頃私は、とりあえず死にたくはなくなっていたが、私には、自分をどうやれば救えるか、謎だった。

そんなある日、自治体の広報誌を見ていたら、その一部が光って見えた。
ピカ、と。

そこに掲載されていたのが、自治体が主催していた心理カウンセリング講座だった。
「探しものの答えはそこにある。行っておいで」と何かが言った気がした。

そこで、私はM先生と出会った。

そして、教師の人達に混じって、数年、勉強して単位を集めた。
資格を取るには、どうしても臨床の単位が必要だったが、私は学校に勤めていたわけではなかったので、そこが難しく、大学院に行こうと思ったが、M先生は、私には向いていないと言った。

M先生は言った。

君を見ていると、なんだか、夢や希望が浮かぶ。
人の闇を癒すことも、人から光を引き出すこともどちらも同じ仕事だ。
君は、光を引き出す仕事の方が向いていると思うよ。
明るい場所にいなさい。


それでも私は大学院に行くつもりだったが、願書を出す直前、はた、と思いとどまった。
毎日一日八時間、人の話を聞いていられる?
私の話は誰が聞いてくれるの?という、根本的な疑問が頭をよぎったからだった。

家族は、みな、私がいつ、それに気付くかと思っていたと大爆笑した。
あの子、臨床心理士になるとか言ってるけど、そもそもあの子は黙ってじっと座っていられるの?とみなで言っていた、入学金を払う前でよかったわ、と。

母は、どうやら、大学院のためのお金を用意してくれていたようだった。
激しく挫折した娘が、立ち上がろうとしているのを助けようとしたのだと思う。


まあ、ともかく、私は臨床心理士になるのを諦めた。
それ以降、私の勉強の場は、民間に移る。


そして、そこで、私は多くの「自分を成長させたい人」に出会うことになった。