まだ続く。
自分の話に戻ろう。
「白い砂浜」および「くまのぬいぐるみ」。
メタファーというものは、私の体を乗っ取る。
いや、体の要求がメタファーなのか?
私は、ここ数日、書き続けていた。
仕事はことごとくキャンセルが入り、仕事以外の予定も後にずれた。
さあ、書け、と言わんばかり。
そして、私は、今まで書かなかったことを書いた。
手はするする動いた。
書いては消して、書いては直して。
私にしては、非常に珍しい作業を続けた。
普段、ブログは、内容については一発OKだ。
細かいところは見直すけれど。
あまり考えずに書いている。
相変わらず、書いているのはスマホでだが。
昨日、も〜しか〜して〜、と思った。
「白い砂浜」の「砂」の一粒一粒は、文字か?
私が蓄積してきたネタが白い砂浜か?
さて、どうなんだろう。
もしも、砂浜がネタならば、砂浜は延々と続いている。
一生分のネタくらいありそうだ。
書いていないことが、山のようにあるということだ。
もしもそうならなんて出し惜しみ、、、と、一瞬思って、いやいや、「白い砂浜」ができたのは最近のことですからと思い直した。
「くまのぬいぐるみ」もね。
だいじょぶ、だいじょぶ、さあ、書いちまえ、と何かが内側で言った。
私の内側が私に話しかける時、いつでも、それは言葉づかいが荒い。
そして、脈絡なく思い出した。
小さな私は、人間に対する共感能力に欠けていた。
動物と植物は得意だった。
それでも、お友達はいっぱいいたし、私は困ってはいなかったが、自分は何かがおかしいと思っていた。
ありがとう、ごめんなさいの意味がわからなかった。
傷つくことにこだわる人の気持ちもわからなかった。
やがて、25才の時の一連の後、私は自分を別人のようだと感じはじめた。
なんて、暖かいものの感じ方をするようになった!と。
死にかけた時に、薬の作用で、脳に何か起きたんじゃないかと今は思っている。
お医者さんいわく、私に起きた事態は、脳に障害が残ることがあるということだったので、残った障害が、暖かい物の感じ方ではないかと思った。
そのあと、勉強しはじめた心理カウンセリングの講習で、私の共感能力は高く評価され、私はまじか?!と驚いた。
観察力には自信はあったが、共感力?
まるで別人のはなしだ。
死にかけてみるものである。
しかし、その暖かさは、それまで持たなかった恐怖を私に生んだ。
他人を気にし始めたのだ。
気を使うのではなく、他人が自分をどう思うかが気になりはじめた。
それまでは。
知るか、と思っていた。
私の人生は、暖かくなったけれど、少し窮屈になった。
感じるとは窮屈なものである、と知った。
「白い砂浜」が登場した後、知るか、が少し蘇った。
それは人が傷ついていいということではない。
ただ、人がどう思おうが私はこう思います、という感じ。
読む人がどう考えるか、それまた、自由というような。
私は、少しばかり、共感力を使うのをやめようと考えた。
脳はいうことを聞いてくれるだろうか?
そうしたら「くまのぬいぐるみ」が浮かんだ。
だいじょぶ、だいじょぶ。
例え、傷ついたって大したことはない。
もし傷ついたら慰めてあげるよ。
一緒に泣いてあげる。
だから、やれ。
だいじょぶ、だいじょぶ。
個人的なやり方なので、さっきまで書いていたシリーズには書かなかったけれど、私は、自分が抱く願いのうち、これは叶うというのぞみと、これは難しいかもしれないなという望みを見分けることができる。
私が使っているのは、ワクワクではない。
私は、だいたい何にでもワクワクしがちなので、それでは見分けられない。
別に、自分の願いに関わらなくても、何か興味があれば、私はワクワクする。
道を歩いているだけでも。
好奇心が強いので、よくも悪くも。
だから、ワクワクはあまりあてにならない。
ワクワクは、私には、特別な感覚ではないからだ。
願いについては、自分が傷つくことよりも重要だ、と感じた願いは、だいたい実現する。
傷つきたくないと感じた時、願いは止まる。
そうしたら、その願いは大事じゃないと判断して、行動のプライオリティを下げる。
「白い砂浜」と「くまのぬいぐるみ」が関わる願いの中、私はきっと傷つくこともあるのだろう。
でも、だいじょぶ、だいじょぶ。
やれ、なのだ。
きっとそれ以外に方法がないから。
しゃあないな、と諦めた。
願いを叶える時、必要なことのひとつは、諦めること。
願いは諦めないけれど、いつも多くを諦める。
欲張っていては、願いは叶わない。
仕方ないので、傷つくことを諦めた(笑)
防御策としては、知るか、を採用しよう。
昔に戻ればいいだけだ。ほんの少しだけ。
「白い砂浜」は平和な場所。
だから、いくらでも傷ついて泣くことができる。
安全でなければ、それはできない。
そんなことしてる場合じゃない。
ちなみに、私が、自分が傷つくことよりも大事だと考えた願いは、ひとつはここにすでに書いた。
もうひとつは、それに付随して生まれた。
他にも願いはあるけれど、大きなものは、そのふたつ。
どちらも、私の人生後半全部に関わる。
というわけで、私の願いを叶える方法についての実験は、まだ続く。