12*

ひとまず一旦、ここで切る。
他のことが書きたい。

1-11までに私が書いたことは、全ての場所に当てはまらない。
また、全ての人にも当てはまらない。

ある程度、物理的に豊かで、生存の危機を感じることなく安全な場所に生きていて、なおかつ、自分の自由がある程度きく状態がなければ、私が書いたことは当てはまらない。

私が生きる国には、割とたくさんあてはまる人はいる。

私が生きる国に生きる人は、この時点で、願いを叶えるには有利な条件下にある人がたくさんいる。

この数十年は。
いつまで続くかはわからない。

この国でも、生きることだけで手一杯の人もたくさんいる。


私が当たり前に享受している環境は、当たり前ではなく、奇跡に近いと私は感じている。

私にしても、自由に自分のことをできる時間は、あとどれくらいあるのかわからない。
家族の誰かに何かあれば、私は自分のことは全て後回しにする必要が生まれる。
その時、タイムマシンに乗せてくれと思っても、今には戻れない。

やりたいことができる時間は、そんなに長くない。


私が、願いを叶えること、願いが叶う人と叶わない人に着目し始めた理由は、ある身近な人の存在がきっかけだった。

その人は、周囲のことばかりしていたが、年を追うごとに、不満げな顔つきになっていった。
そして、ある日言った。
我慢は何の役にも立たない。

あなたの好きなようにしていい、と周りは言った。
誰も、あなたに我慢して欲しいとは思っていない、と。

ただ、長い間、自分の好きなようにしてこなかったその人が、好きなようにしようとした時、その人は、上手に周囲と円滑に自分の願いを叶える方法に詳しくなかった。

その人は、不満をぶちまけた。
自分は、こんなに我慢してきたのに。


それを見て、私は思った。
自分ができた人でない普通の人だと思う人ほど、願いを叶える努力をした方がいい。
すごい人でない人ほど、願いは叶えた方がいい。

それが周囲の幸せだと。


それから、過去生きた偉人や神さまの本を読み漁った。

共通していたことは、みな、自分のやりたいことをやりきっていたことだった。
よく読めば、みなむちゃくちゃだ。
偉業を成したのでよかったことになっているが、やりたいようにしていただけだ。
そこには、すごい人はひとりもいなかった。

その影に、耐えた人、支えた人の存在もきっと多く存在したことだろう。
それらの人の願いは、もしかしたら、支えたいだったかもしれないし、耐えきりたいだったかもしれないし、または、そうせざるを得なかったかもしれないし。
わからない。

彼らは幸せだっただろうか?
彼らには、願いはなかったのだろうか?
彼らの願いはなんだったろうか?


今、昔なら、それらの人の側にあたる人も願いが叶いやすくなっている。
いつまで続くかはわからない。

すごい人の願いは、どんな時代でも、いつでも叶う。
そうでない人は、時代と環境に大きく左右される。


庶民が不満を解消させることではなく、自分の願いを叶えることを考えられた時期は、歴史上、ほんのわずかだ。
女性にいたっては、ほんの数十年だ。
これだって、いつまで続くかわからない。


選択の自由はいつでも奪われる。
願うことはいつでも自由にできるが、願いを叶えるチャンスはいつでもあるとは限らない。

願いを叶えるチャンスと、不満を抱く自由が、同時に存在している時代は本当に短い。


さて。

私が願いを叶えることに着目したきっかけを作った人は、やがて、少しずつ、やりたいことをやり始めた。
そして、小さな願いを叶え始めた。
それは、長い間、その人が不満として口にしていたことをすっかり消し去り、新しい風を吹かした。

その人は言った。
今が一番幸せだ。

その人は、諦めてはいなかったようだ。


願いを叶えるのに一番重要だと私が考えることは、諦めないことだ。


それから、幸せになることを躊躇しないことだ。

あなたは他人の幸せを望む人かもしれない。
もしも、他人の幸せを望むなら、一番簡単で、一番難しく、一番手間がかかる方法は、あなたが自分の願いを叶えて幸せになることだ。

あなたの幸せな顔は、あなたが幸せにしたい人をきっと幸せにする。

諦めないで。