軽やかな信念の邪魔をしたもの。それは常識。

これさあ、、、、と、「山」が破壊された後、「白い砂浜」を探索する中、いろいろ浮かぶことの中で思った。

これさあ、同じような人がたくさんいるのではないだろうか?

常識的な言葉の定義のために、とっくにそれはあるのに、ないと信じきって、探し続けるはめになっている人。

この場合は、信念だ。


私の信念は、「コルベ神父という名のくまのぬいぐるみ」というメタファーで現れた。
くまのぬいぐるみの特徴は、ふわふわ柔らかい、暖かい、いい匂い。
そして、無邪気。


これは、先にメタファーで現れたけれども、何か普通の言葉があるはずだ、と私は思った。
言葉は何だ?
メタファーが先に現れてはいるが、このメタファーは、何か言葉を持つはずなのだ。
信念は、言葉を持つはず。

幼いメタファーで登場しているから、人生の相当初期に、その原型はあったはずだ。


私はそう考えた。
そして、しばらくして、私は気がついた。

私の信念を、自分は、幼い頃から言葉として発し続けてきたことを。
それは、常識が自分に刷り込まれるずっと前から私を支え続けてきた根拠ない確信。

母は、私がそう言い、それに基づいて行動することが心配で仕方なかったと話していた。
それを思い出して、わかったのだ。

私の信念は、ひとことでまとめるなら「大丈夫」だと。

「だいじょぶ」
そう言って、小さな私はともかく走り、転び、泣きながら
「だいじょぶ、だいじょぶ」
そう言っていたのらしい。


大人になった私もよく口にする。
「大丈夫だよ」

そこには、何の根拠もない。
でも、「大丈夫」と思う時、事は大丈夫なことが多い。

そして、大丈夫でなかったことなど人生にここまで一度もない。

大丈夫でなかったなら、今、私は生きていない。
小さな頃、「だいじょぶ、だいじょぶ」は、本当に根拠なく、ただ、だいじょぶ、と自分を励ますためのものだった。


私を支えている信念は「大丈夫」だ。

この大丈夫がどんな大丈夫なのかというと。

それは、自分の人生なのだから、自分さえいれば大丈夫だ、自分さえ自分の人生を諦めなければ大丈夫だ、何があっても大丈夫だ、そういう大丈夫。

無事だとか、物事うまくいくとか、そういうことではない。
別にうまくいかなくてもいい。
いくらでも失敗すればいい。

ただ、大丈夫なのだ。


2人の人と、本を読み、学び、自分の中で対話を続けた中で、私の「大丈夫」は、成長した。
人間という存在を諦めず、人間を愛し続けたのが、2人の人に共通したことだ。
2人とも、柔らかく、春のように温かく、人の心をやわらげる人だった。
私にとっては。


大丈夫は成長したけれど、人生の本当に初期からあった。


ある一時期だけ、大丈夫じゃないんじゃないか、と私は疑ったし、また、試されるような経験があった。
この世で一番信用ならないのが、自分だった時期だ。
自分が自分を苦しめるようなことをした時期。


それは遠くに過ぎ去り、そして、今、私はやはり言う。
「大丈夫」


それは、信念と呼ぶには、あまりにもささやかで、ちっとも重みはない。
私の日常に普通に存在する。

私を支えているけれど、それはしゃんとした軸のようでもない。
柔らかな柔らかな思いだ。

自分の人生だ。
なんとでもするさ、という。

しんどい時は、大丈夫、大丈夫、と私を励ます。
がんばれ、とは言わない。
ただ、そこにある。

小さな子どもが腕にぬいぐるみを抱えているように、ただ、私は「大丈夫」という思いを抱えている。

当たり前に。

当たり前すぎて、気がつかなかった!笑

気づいてないとは恐ろしい。
口癖なのに。


信念って、多分、大層なことではないことが多々ある。
大層なことの場合もあるだろうけど、大層でないこともきっと多々ある。

信念の作用と効果は、人を支えることだ。
その人を励まし、その人がやり遂げられるように、その人の中にあればそれでいい。

その人を支えることができるなら、大層である必要などそもそもないのに、なぜ、私はそう思いこんでいたのだろう?


私の大丈夫は柔らかい。
そして、それがぬいぐるみというおもちゃだったことからわかるのは、それは、遊び心に満ちている。

私の人生は、大丈夫という安心感と、遊び心が支えている。
ダイヤモンドのペンダントを飾りに。
たまに触って、綺麗だな、と思うために、それはくまの首を飾る。


ちっとも大層じゃない。
ずっと持ってた。


しかし、持ってることに気づいていることと気づいてないことの違いは大きい。
どれくらい違いが大きいかは、ここから先の自分で観察するとしよう。

私の人生は、実験だ。