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願いが叶いにくい人と願いが叶いやすい人の間の違いを観察する間に、気がついたことの一つは、願いが叶いにくい人が「その願いを願っていたい」という願いを持つことだった。
これに気がついたのは、「〜やりたい」「〜したい」など「(行動・動作を)する」ことが願いの話だった。
(行動や動作を)やりたい、したい、という願いは、最も実現しやすい願いだ。
やればいいのだから。すればいいのだから。
それが自分自身のことならなおさらだ。
会社を辞めたい。
辞めればいいだけだ。
好きなように生きたい。
好きなように生きればいいだけだ。
もっと自分を〇〇したい。
〇〇すればいいだけだ。
本当にそれが願いなら、そうすればいいだけだけの話だが、〜したい、〜やりたい、の願いにはトラップがあることが多い。
本当は、それ自体は願いでなく、その先にある、または、その奥にある、願いを叶えるいち手段に過ぎない可能性だ。
やりたい、したいことがあるのに、自分が動かないために願いが叶わない時は特にそうだ。
願いが叶いにくい人はここで、自分が「〜したい」「〜やりたい」ことを、自分がしない、やらない理由を一生懸命探す。
そして、その願いを保ち続ける。
初志貫徹という四字熟語は、願いを叶えることについては、ほとんど無意味だ。
初志、最初に願うことが、自分の本当の願いとは限らないのだが、特に、願いが叶いにくい人は、スムーズに自分の願いを浮上させるのが苦手なことが多い傾向にあるように見える。
初志は、正解の願いではないことは多々ある。
しかし、願いが叶いにくい人は、願いを保ち続ける努力をする。
願いを願っていたいという願いがそこにあるかのように。
一方、願いが叶いやすい人はここで、自分が「〜したい」「〜やりたい」ことを、疑ってかかる。
また、その願いが叶った先を考える。
そこに、自分の本当の願いが隠れていて、手段を願いと誤解している可能性があるからだ。
それが願いでなく、手段であれば、その願いは手放せる。
やらない、しない、のだから、自分には合わない手段なのだ。
手段は、どうしてもそれしか願いを叶えるのは無理!という場合もあるが、ほとんどの場合は違う。
または、本当は、自分は何らかの理由で、それをしたくないし、やりたくないと認める。
したくない、やりたくない。
つまり、それは、願いではない。
叶える必要がない。
ただし、それを願ったには、何か理由があるはずだから、それを探る。
そして、新しい願いを見つけて願いを変えるか、または、その願いは忘れる。
願いが叶いにくい人は、「願っていたい」という願いを持ち、願いが叶いやすい人は「願いを叶えたい」という願いを持つ。