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願い。
パンを食べたい。
願いの内容にもよるけれど、だいたいの願いは、浮かんでからそれが実現するまでに時間の経過を必要とする。
パンが食べたいという願いですら、どんなに早くても、一、二分の時間を必要とする。
その時の状況によっては、数時間、必要なこともある。
いる環境によっては、明日まで待たなければならないこともあるかもしれないし、いつ食べれるかわからないこともあるかもしれない。
状況、環境によってもかかる時間の長さは変わる。
同じ願いを抱いても、個人個人、そこに必要な時間の長さは変わる。
かかる手間もかわる。
必要な行動、必要な精神状態も変わる。
どんなにシンプルな願いも、叶えるのが簡単なことも、叶えるのが難しいこともある。
そこに関係しているのは、自分の力だけではないこともある。
願いが叶わない人の大きな特徴は、時間をかけずに、自分の力だけでなんとかしようとすることだ。
そのため、目の前にパンがある時しか、食べられない。
環境が整っている時の願いの叶え方しか知らない。
そして、ほとんどの場合、目の前にパンはない。
ではどうする?
目の前にパンがないことを嘆く?
環境が整わないことを嘆く?
パンを持っている人をうらやむ?
願いを叶える人たちは、その間、パンがある場所を探しもとめていたり、パンを焼こうとしたり、パンを持つ人に分けてくれるよう頼んだり、どうやればパンが手に入るかを、必死で考え続け、行動し続ける。
どちらも、まだ、目の前にパンは持っていない。
同じなのだ。
目の前にパンがないから、願ったのだから。
叶う人と叶わない人に、始まりの時点で違いはない。
自分がいる環境でみな願う。
目の前にないものを。
そして、パンが目の前にようやくきても。
願いが叶わない人は、目の前にパンがあっても食べようとしないことがある。
願いを叶えるとき、謙虚さは全く意味をもたない。
自分がかけた手間と時間、それから協力してくれた人達への敬意はそこにまるでない。
あなたがパンを食べないことが、誰かを幸せにするのだろうか?
シンプルな話だが、パンを食べなければ、パンを食べたいという願いは叶わない。
パンが食べたい、と、願ったのに。
自らの選択で、自らの願いを潰し、諦める。
叶えないという選択をして。
または、時に、叶わない人は、自分がパンが食べたかったことを知らないこともある。
だから、そのパンが特別なパンだと気づかない。
人間は、タイムマシンを持たない。
今現れたものも、一秒先には過去になる。
一週間たてば、パンにはカビが生える。
叶う人たちは、パンを食べる。
願ったパンが現れたら、目の前のパンを食べて、それから、その味が欲しかったものともし違うなら、新しく、もっと美味しいパンを願う。
または、次はパスタを食べようかなと願う。
願いを叶えながら、願いを更新する。
一度で完璧に願いが叶うことなど、私が見てきた限り、知る限り、ほとんどない。
そして、パンが目の前にあっても、パンを食べなければ、パンを食べたいという願いは叶わない。
そして、食べてみなければ、自分が本当に願ったことが何かはわからない。
願いを叶え続ける人たちは、少なくとも一度か二度は、泥でできたパンやまずいパンを食べたことがあるはずだ。
そして、美味しいパンを願う必要があることを学んだはずではないかと思う。
叶った願いは、いつも美味とは限らない。
しかし、美味しいパンを食べるためには、まずいパンを食べる必要があることも時にある。
願いを更新するために。