書かなかった「普通」

書かなかったし言わなかった記憶が、書いて書いてと私をせっつく。

それらを書かなかったのは、書いたところで、誰からも共感されないと思ったからだ。
それに、ただあったことなだけだから、私にとっては自慢話ではないけれど、そう取った人がいたために、私は、過去に2カ月ほどいじめにあったことがある。
聞かれたから答えただけだったけれど。
それ以降、それらの記憶は、家族以外に語るのはタブーに近かった。

でもなあ。。。
私を語る時、そこの3年間が確実に人格形成に大きく影響してると年々感じるのだ。
私の物の見方に大きな影響を与えていると。

これ、私の思考を記録してる日記でしょ。
明らかに影響していると気がついてるのに、記録を省くかね?


そこには、そのあと触れた世界とは、別の常識が存在して、私は、ダブルスタンダードの常識の中をずっと生きてきたような気がしている。
場所、場所で、自分の常識を変更して。


私が物質や環境が精神に与える影響はあると思う根拠は、自分の経験からだ。


私は庶民の家の子供だが、その三年だけ、私は裕福な人々の中に生きていた。
私の父はエンジニアで、その国の電鉄システムを構築する仕事でそこに行った。
貨幣価値が10倍くらい違ったので、当時、その国では、日本人は裕福。

そこでしたその暮らしが、裕福な暮らしだということは知らなかった。
子供だったから。
そして、周りの日本人はみんな同じような暮らしをしていたから。
外交官、商社、エンジニア。
友達のお父さんの仕事はだいたいどれかで、暮らしぶりは、みな似たような感じだった。

そこは今でも貧富の差が激しいストリートチルドレンが普通にいる国だけれど、日本人に限っていうなら、私の目にはみな同じような暮らしぶりに見えた。
だから、それが、裕福な暮らしだとはわからなかった。
「普通」の暮らしだ。

ただ、私は、ストリートチルドレンを見る度に、申し訳なく思った。
同じ子供なのに、なぜなんだろう?
なぜ、彼らにはお家がないのだろう?
どうして、子供なのに、働いているのだろう?



おかしいのは、その三年だけ、写真の中の私たち姉妹は育ちの良さそうないいとこの子供な雰囲気を漂わせていること。
環境の力は偉大である。



さて。
私がいじめにあったのは、小学三年生。
日本に帰国してすぐの頃。
転校生にはよくある話だ。
理由は、スペイン語を話したらしいことと、なんか気取っていたかららしい。
転校初日、よせばいいのに、母がワンピースにジャケットを着たスタイルで学校に行かせたことが理由だと思う。
地元に、そんな格好の子供はいなかった。
加えて、私は標準語を話した。


しかし、2カ月経つ頃には、私には味方してくれる友達が数人できていて、しばらくした後には、形勢が逆転して、私は自分をいじめた首謀者にやりかえしていたから、今となっては、あれをいじめと呼んでいいかどうかは、総合的に考えるとやや微妙だと思っている。


そんなわけで、10年、記録を続けた中で、私が語らず、記録しなかった話は、私の小学校生活の前半。
その時期、母も、日本にいなかったので、のびのびしていた。
そこには、祖母も親戚もやってこなかったから。


家にはメイドさんがいた。
雇用しなければいけなかったのか、どの家にもメイドさんはいた。
私は、うちのメイドさんが大好きだった。

私は、一階に守衛さんがいて、ひとつの階にふたつしか部屋がないマンションの13階に住んでいた。

部屋は全部で6つ。
リビングには、10人がけのダイニングテーブル、赤いソファセットが置いてあって、窓は全面ガラスばりだった。
毎週水曜日、窓の外をコンコルドが飛んでいくのを見るのを楽しみにしていた。
窓からは、カテドラルが見えた。
夜は夜景がきれいだった。

キッチンにもテーブルがあって、普段はそこでご飯を食べた。
キッチンの奥には、メイドさんの部屋があった。
子供部屋はふたつ。
ひとつは、妹と私のベッドと机があり、もうひとつは遊び部屋だった。

うちの向かいの部屋も日本人の家族で、家族は途中で入れ替わったが、どちらも同級生だったので、家を行き来して遊んだ。
マンションにはいくつか棟があって、何組か日本人の家族がいたので、そこの子どもたちともよく遊んだ。

言葉は標準語。
みんなで同じスクールバスに乗って、学校に通った。
年齢関係なくみんな仲がよく、学校にはいじめもなかった。


私は刺繍とピアノ、習字を習っていた。
それから、スペイン語。
私が最初に習った第二外国語は、スペイン語だ。
習いごとで、身についたのは、ピアノだけ。
それから、私の英語の発音が、ヒスパニック系のアメリカ人には聞き取りやすいらしいこと。


私は、週に一回やってくる小さなトラックを楽しみにしていた。
トラックは、日本食品や雑貨のお店だった。
その中から、日本のお菓子を買ってもらうのだ。
日本のお菓子は美味しかった。
これは今でも外国にいくと思う。
日本のお菓子は世界一だと私は思っている。

それから、文房具。これも世界一。


私は、祖父から送られてくる日本の漫画や本を楽しみにしていた。
現地の漫画も読んだけれど、日本の漫画は、絵がきれいだった。

母がくれたリカちゃん人形に、姉妹は飛び上がって喜んだ。
日本の人形は作りが丁寧だった。

日本から持っていったいちごちゃんハウスでよく遊んだ。
友達が、キキララハウスを持っていた。


日本は、憧れの地だった。
おいしいお菓子、おもちゃ、漫画。


同時に、流行っていたピトゥフォという青い小人のアニメが大好きで、ぬいぐるみやお人形も持っていた。
ピトゥフォは、自由いっぱいの小人たちだった。
アメリカのアニメだったようだ。
スマッフィという名前で、今は日本にもある。

トルティーヤが大好きだった。
今でも、メキシカンは好きだ。
私がアメリカは滞在が楽だなと思う理由は、食にある。
毎日、タコスでおそらく私はいける。
お米には執着がない。


それから、多分、今考えるとやってはいけないことだったはずだが、しばらく家で、オオカバマダラチョウを飼っていた。
天然記念物のチョウ。
リビングで、チョウを飛ばして遊んだ。
尺取り虫やカエルも飼った。
ヤドカリも。
小さな生き物をいつも飼っていた。


小学校の遠足で、ピラミッドに登った。
休みにも、マヤ遺跡によく連れていかれた。
景色はきれいだったけど、石の塊に、やや、私は飽きていた。
セノーテは落ちたら怖そうだと思った。

乗馬もした。
カントリークラブのプールで貸切状態でなんども泳いだ。

どこかの別荘にも遊びに行った。


ワイナリーでぶどう狩りをして、ぶどう畑を走り回り、羊の丸焼きのバーベキューをした。

クルージングで、カジキマグロ釣り。
船酔いして、船底で、ひたすら吐いて寝ていた。

フロリダのディズニーワールドが、子供たち憧れの旅行地だった。
私は連れて行ってはもらえなかった。
我が家の休みの旅行は、遺跡と海だった。
泊まるホテルは一流ホテルだった。
そうとは当時は知らなかった。

時々、トウキョウという名前の日本食のお店に行った。
鍋焼きうどんが美味しかった。


当時の日本の総理大臣が学校を訪ねてきた。
大平さんだったか。
お相撲さんも巡業に来て、お話をした。
競歩のオリンピック選手の人、
盲目の折り紙アーティスト、
いろんな人が学校にはやってきた。

学校の運動場には、サソリがいた。
紙コップにサソリを入れて捕まえてきた男の子はむちゃくちゃ怒られていた。



そういうのが、その3年間の私の「普通」だった。
この、普通が3年間続いた後、私に、新しい「普通」が訪れた。

みんなに普通のことは、私にはちっとも普通ではなかった。
いきなり、みんなと違う、という理由でいじめにあったことで、私は、必要以上に、新しい普通を意識した。


まあ、よくある話かもしれない。


そこから先は、もうたくさん書いたので、省略。


はあ、やっと書けた。
欠けていたピースをはめた。

これも、白い砂浜の一部だ。