まさか自分が

昨日に引き続き、私は、また気がついた。
そして、これはもしかするともしかすると思った。

今まで、共有しにくかったり、何が違うのかはっきり言語化しにくかったりした部分を、わかりやすく説明できる共有できるメタファーを手に入れた!、私はそう思った。

願いは、まるでウイルスだ。
私はそう思った。

周りの人をどんどん感染させることができれば、願いの叶う確率はうんと上がる。
そのために必要なものは、関数的な人とのつながりを感じる世界観ということは、昨日、書いた。


今日は別の要素。

ウイルスが流行しはじめた時、「まさか自分が」「自分が感染するとは思えない」と思った人の願いは叶いにくい。
少なくとも、思考や意識を使って願いを叶える方法は、その人には機能しにくい。
お祈りでも、また、同じだ。
神さまを信じても、祈りの内容が現実になると信じなければ、祈る意味がない。


起きることが、ポジティブな出来事だろうが、ネガティブな出来事だろうが、仕組みは同じだ。

病気になるか、願いが叶うかという、結果の部分が違うだけで、思考の仕組みに大差ない。


この話は、その人が、ずばぬけた才能や頭脳を持ち、願いがそれに絡み、1人でできることだった場合は別だ。
私が研究し続けているのは、取り立てた才能を持たない自分のような人が、願いを叶えていく方法だ。


まさか自分が、自分が感染するとは思えないと思った人は、未知を信じる力が弱い。
そして未知に対する恐怖が強い。
そして、与えられることに対しての受容力が弱い。


願いが叶った世界は、その人にとっては未知だ。
自分の願いを叶えるのは、必ずしも自分自身とは限らない。
他人が、あげるよ、と、叶えてくれることは、私の経験では、実に多い。


少なくとも、初期の時点では、ウイルスは、誰にも平等であると考えられていた。

願いが叶うチャンスもまた同じだ。
誰にでもある。

ただ、自分なんて、自分にそんなラッキーなことが起きるとは思えないと言う人も、また、実に多い。
信じない人たちだ。


これがどんな違いを生むかというと、やはりここでも関係するのは、人だ。

願いを叶えてくれるのは、神さまではない。
私は絶賛、下心満載で、全ては神さまのおかげだキャンペーンを実施中だが、この話は、現実に的を絞る。
神さまが全部与えてくれるという人の多くが、見落としすぎてることがあると感じてもいるからだ。


人だ。
人間だ。
人間の存在を軽んじすぎる。
神さまばっかり見て、人を見ていない。
そう思うことが、たくさんあったのだ。

神さまが何を愛しているかが理解できていないのではないか?と、感じることが沢山あった。


空の下において、願いを叶えてくれるのは、人間だ。
人間を大事に思えない人の願いは叶いにくい。



話を戻そう。


自分の願いを信じない人に何が起きているかというと、他人に適当に話を聞かれ、まじめに考えてはもらえないという事態だ。

本人が信じていないものを、他人は信じない。
それが起きるとは信じない。


私の話は、割と信じてもらえる。
ああ、本当にそうしたいんだなと。

それは、だいたい未知の世界の話だが、まさかそんなことは起きないとは、誰も言わず、自分にできることがあれば、手伝ってやるから言えといろんな人が言う。

これが、私の願いが叶いやすい理由のひとつだと思う。


そして、私は、あげるよと誰かが差し出してくれたものは、だいたい、ありがたく受け入れる。


ウイルスと願いには、共通点がある。

どちらも、目には見えない。
どちらも、人に感染する。(伝播する)

違いは、ウイルスは人をしんどくさせるが、願いは幸せな人が増えていくことだ。
ウイルスは恐怖を広げ、願いは希望を広げることだ。


目に見えないものを信じる力の強さ、未知に対して恐怖を感じないこと、そういうことが、必要だ。


ちなみに、まさか自分に、とか、大したことはないと、今の時点で言い切れる人は、恐怖が非常に強い人だ。
否認することで、心を保とうとしている。

変化を嫌う人。

これまた、願いは叶いにくい。

状況に応じた行動変容が、願いを叶えるには必要だ。

真空の空間で、願いを叶えていくわけではない。
さまざまな現実環境の中で、願いは叶えられていく。

行動を変えられない人の願いは、状況に左右されやすい。
よい環境でなければ願いが叶えられないと思う人の願いは、叶う確率が下がる。

全てが完全な時期は、人生の中にそんなにない。




私は、運がいいわけじゃない。
願いが叶うには、ちゃんと理由がある。

私は、本当にそう思った。
そして、とてもうれしくなった。

それなら!
誰の願いも叶うよねと思ったからだ。

自分の願いが叶うだけでは、非常につまらない。
分かち合えない方法など、研究する喜びはない。


ちゃんと理由がある。
私は、本当に嬉しく感じた。


さて、これらをどうやれば、体感として、会得してもらうことができるのか?

普段なら難しい。
でも今なら?


さあ、ウイルスは、あると信じ、自分がかかる、もしくはすでに感染していると信じて、いつもと違う週末を過ごしてみて。

その中で恐怖は感じず、条件が悪い中で、楽しく幸せに過ごす方法を見つけてみて。

そして、今日の楽しい一日を、人にシェアしてみて。

それは全て、願いを叶えるためのトレーニングとして機能する。
そして、人が幸せを願う気持ちは、世界にいい作用をもたらす。


奇妙な時期に、どう過ごすかは、奇妙な時期のあとに大きく影響する。
今は、過去なのだ。
未来とつながりをもつ過去。



そして、クリスチャンの方のみ、ここにひとつ追加するとさらにいいと思う。
自分が楽しかった、幸せな一日を過ごした最後に、幸せな気持ちで感謝して、世界の平安を祈ってみて。
ジーザス、喜ぶはず。
あ、あなたの神さまは、イエスさまかもしれないけれど。


楽しい週末を。