哲学嫌いなおっちゃんUさんのはなし

私は、おっちゃんUさんが好きだ。
少年のようにピュアな心を持つ、まもなく60歳になるおっちゃん。

おっちゃんUさんは、聖書博士だ。
詳しい。

そして同時に、おっちゃんUさんは、聖書なんて何にも知らない子供の発言の中に神さまをみて、おお!と感動していたりする。

面白い。

そんな敬虔なクリスチャンおっちゃんUさんは、ギリシャ哲学を嫌う。
キリスト教と哲学の間には、ブラックな歴史がある。

キリスト教が宗教として成立したのが、ローマだったことと関係しているらしい。
ローマは、政治的な理由で、ギリシャの影響を切りたくて仕方なかった。

私は、哲学側の視点から、先にそれを学んだ。
えぐい迫害を、クリスチャンは、哲学者にしている。

クリスチャン側から見ると、事実は変わる。
迫害を受けたのはクリスチャンだ。

もちろん、クリスチャンが、迫害をしたことは聖書には書いていない。
それらは、聖書が成立した後に起きたはなしだ。

歴史は、見る側によって事実が変わる。
人数で比べれば、おそらく、迫害を受けたクリスチャンより、クリスチャンが神の名のもとに迫害した人数の方がはるかに多いだろう。


これは、私が、長らくクリスチャンになることを考えあぐねた理由の一つでもある。
愛と平和を語るその信仰がもたらすものが、平和ではなかった過去。

右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せという教えを持つ信仰が、やられる前にぶちのめしにいった過去。


(私がどうこれを解決したかというと、私、日本人だから関係ない、という結論。)


さて、時は現代である。

おっちゃんUさんは、聖書を大事に扱う敬虔なクリスチャンなので、ギリシャ哲学を低くみる。

私は、そのうちつっこんでやろうと、一番面白いタイミングを待っている。
「じゃあ、Uさんは、病気になっても、病院には行かないんですね!すごい!」

おそらく、今、ちまたを騒がすものも、医学という科学が、時がくれば、解決するだろう。
それはたしかに、人を救おうとする愛のひとつのようにも見える。


それらの源流にあるものは、ギリシャ哲学だ。


人間の知恵に世話にはなるが、ばかにしろと、聖書には書いてあるのだろうか?
私は、まだ、そういう箇所を見つけられていない。

私が、哲学側の歴史から習ったところでは、聖書の時代から1000年以上後になるけれど、暗い時代を経た後、哲学と信仰は一部融合をはじめ、敵対関係ではなくなる。

そして、知恵と愛は手を取りあって、人類を繁栄させてきた。


知恵だけが先行するとき、地球が住みにくい場所になることは事実だろうが、愛だけでは、今起きているようなことが解決できないのも、また事実だ。

そして、人間のIQは、この100年ちょっとでむちゃくちゃよくなったので、おそらくではあるが、聖書の中に登場する人間よりは、今の人間の方が全体的には賢いと推測される。

トイレットペーパーの買い占めを見たりすると、あんまり変わってないような気もするが、多分、全体的には。


愛と知恵のバランスが取れるところまで私達が到達できた時、そして、人が願うものが少し変化した時、希望の扉が開くような気が、私はする。


私は知恵を愛してる。
でも、知恵を愛したからと言って、神さまが低くはならない。

だって、知恵は、神さまが愛した人間の要素だもの。
神さまが愛したものを、私が愛さない理由はない。


さて、おっちゃんUさんは何と言うだろうか?