知らざれる特典

「しまった!もう使っちゃった!」

礼拝に通い始めた最初の頃、私は心の底から叫んだ。

礼拝終わりに立ち話をしていたときに、Sさんが、「キリスト教の神さまは、願いを叶える神さまなんですよ。それはクリスチャンの特典なんです」と言ったからだ。

なぜ、それを先に言わない?!まあ、知っていても、私は猫に使っちゃったんだけどさと、私は思った。

魂が救われる話しか聞いたことありまへんで、とも思った。
なぜ、こんないい特典があることを先に言わない?

まあ、誰も隠してはいないのである。
聖書にちゃんと書いてあるから。
正々堂々、オープンソースだ。
誰にも読めるよう各地の言葉で書いてある。
だから、読めばよいのである。


"あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。"
ヨハネの福音書 15章7節


「なんでも叶えてあげるよ」と書いてある。
ひとつだけ、お約束を守るなら。
ジーザスが素敵だわと思うのは、そのお約束が、自分を信じるという約束じゃなかったことだ。

まあ、信じてる人に語ってるから、わざわざいう必要はなかったのだろう。
私もジーザスを信じてるから、そこはクリアしてるとして、ジーザスが守らなくちゃいけないよと言ったのは。


"あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。"
ヨハネの福音書 15章17節


これだけ。
ジーザスのお父さんは、あれを守れ、これを守れと、私には絶対無理な約束をたくさん言ったけど、ジーザスはこれだけ。

そうしたら、お願いを叶えてあげるよと言っている。


とはいうものの、なんでこれを言わない?と、私はまたしても謎を抱えた。
私がクリスチャンになるまでに、私にキリスト教を勧めた人は何人もいたけど、誰も教えてくれなかった。

聞いてたら、ずいぶん前に、クリスチャンだったと思うよね、私。


それから、これは、単に、悩んだり、苦しい時期がきっかけで、クリスチャンになる人が多いということかもしれないなあと思った。
それは確かに、あらゆる宗教の主戦場ではある。

大事なことよ。


ただ私は、自分がちっとも苦しくない、むしろ、幸せが余ってる時期にクリスチャンになったので、救いは大きな特典とは思えなかったのだ。

いろんな人が必死で説明してくれたが、私は「神さま、私はもう十分なので、他の人をどうか救ってあげてください」と、こっそり祈った。
とりあえず、家族、友達、知り合い、それから道でたまたま会う人、手当たり次第全部頼んだ。

救われて困る人はいないだろう。

(だから結構、道を歩くと心が忙しいよね。)

ただし、何を救いと言ってるか、今でも時々わからない。
(そして、実際、これは神さまにしかわからないんだと、洗礼のお勉強会で習った。)

ただ、楽しいから、私は教会へ行く。


そして、ジーザスは、行って人を救ってこいとは指示してない。
それは、神さまがやることだ。

ジーザスが言ったのは、愛しなさい、祈りなさい、人を癒しなさい、人に与えなさい、人と分かち合いなさい、そんな感じ。
できること。

魂、救ってこいなどとは指示してない。
どこにも書いてない。
厳しいお父さんの方も、さすがにこれは言うてない。

神さまを信じられるようにするのも、自分にそうだったように、神さまが勝手にやると思ってる。
だから、私はどうも、他人に必死に勧める気にはならない。

ただ、面白いから語るけど、それは勧めてるんじゃない。

自分が信じるものを自分で選べるようになるまでに、どれだけ沢山の血が流れたかを考えると、そりゃできない。
私には。


だから、私がやるのは、それ以外だ。
神さまには体がないから。
体がないとできないことをする。

つまり、とても、普通のことだ。
クリスチャンになる前と、私がやってることはあまり変わらない。
祈るようになったくらいだ。


でも、特典くらいは、先に教えてあげてもいい。
これは、ほんとだったよ。

別の言葉で書くなら、思考の現実化。

たくさん、ここにも書いてる。



さて。

私が、「しまった!」と叫んだのを聞いて、Sさんはおかしそうな表情になった。

「それは一回だけ?」と私は尋ねた。

Sさんは今にも笑いだしそうな様子で、「安心してください」と言った。
「一回限りという決まりはありません。何度でも、必要なだけ。」

私はそれを聞いて、「よかった!」と、また、心の底から言った。

それを見ていたおっちゃんUさんが、「あんたは、ほんまに面白いなあ」と言った。