愛の波長

ここしばらく、愛の波長の中で暮らしている。
つくづく、ニュースと波長の合わない人生だ。
日常としては受け入れているので、自分の目の前には対応している。
世界については、祈ってる。


さて、この愛は、LOVE MUSIC!
音楽愛の波長。

やっている仕事も音楽関係に関わる仕事なら、自分がせっせと励んでいるのも音楽活動だ。

そこに、色と言葉。
音楽と色と言葉。


別枠で、時々している仕事もあるが、昨日はそこにまでピアノの音が登場した。
訪ねていった家で、ピアノを弾いていた人がいたのだ。
それで、会話は、ずっと音楽の話。
訪ねた人は、やはり音楽を愛してきた人だった。


家では、夫がいないので、私はずっと音楽を聴いている。
結婚するまではそうだった。
結婚した後は少し変わったが、今は基本一人暮らしなので、何をしながらでも、ずっと音楽を聴いている。

私の調子はすこぶるいい。


何が、自分の人生の調子を整えてきたのか、何が人生のベースにある愛なのかを、つくづく感じた。

私自身(egoじゃなくself)がそこにちゃんとあって、そこを支えるベースにある愛は、間違いなく音楽だろう。
ずっとそうだったように。


それでつくづく思ったのは。

愛って育まれるものなんだなということ。
結婚式の誓いの言葉で「健やかなる時も病める時も」というのがあるが、ありゃ本当だと思った。
健やかなる時も病める時も、心穏やかな時も、不安な時も、そこにあるもの。
共に乗り越え、育まれていくもの。
それが、愛なのだろう。

私の何度かあった人生の転換期には、音楽が絡んでいることが多い。
音楽との関わり方の変化が、そのまま、人生の転機とリンクしている。
その中で、ただの好きから、愛へと変わっていったような感じがする。


そして、愛は連鎖する。


私は、単に、音楽が好き!というだけのことでもないようだ。
結局、ずっとそこに関わり続けている。
形を変えながら。


そして、自分と同じように、それが好きな人たちと関わり続けている。


ジーザスは、愛を語る。
神様の愛は、私には理解のしようもないが、私の持つ愛の一つは、音楽への愛だということだけは、私にもわかる。

これが愛だから、ジーザスは、どんどんやったらいいよという感じなのだろうという気がする。

同じように、私が文章を書くことも、私はやっぱり、文字を書くのを愛しているのだろうと思う。
これは一人でする作業だけど、だから、どんどん書いちゃえよという感じなのだろうと思う。


愛してるものを愛するのは、愛してないものを愛するより簡単だ。
この世にはたくさんの人がいるから、自分は、自分が愛してないものを愛するために、愛してないものに目を向けるのではなく、自分が愛しているものを追求していけば、それでいいのかな?と最近は思ったりする。

私が愛していないものも、別にちゃんと愛してくれている人がいる。
だから、それは、その人たちにお任せすればいいのかな?とか。

そして、ただ、自分が愛していないものを愛する人に、ちゃんと代わりに愛してくれてありがとう!と感謝して、そして、協力しあえることがあれば、協力しあえばいいのかな?とか。


何しろ、私は人間である。
神さまのように、全てを愛することはできないし、そんなことはあっちも望んじゃいないだろう。

できないことをやれとはいうまい。
それに、それは神さまの仕事だから、それをやらないなら、神さまは神さまをやめた方がいいと思う。


そうして、私は人間だから、自分ができないことで、代わりにやってくれている人や、痛みを抱える人のことを、ジーザスに祈ればいいのだな、と。
そして、ありがとう!ジーザス!と思っておけばいいのだな、と。

きっとそうなのだろう、と。


私には、世界中の人を愛することはできない。
でも、家族や友人、仕事で関わる人を愛することはできる。

そして、世界のために祈ることはできる。
祈りもまた愛だな。。。。


祈り、愛し。

自分はせっせと自分が愛する日常をこなすのみだ。