まずは好きからはじめよう
それで、私が、教会の中での実験の最初にはじめたことは、とりあえずみんなを好きになることだった。
何を置いても、この場合、まずそれだ。
「好きは全てを乗り越える。」
恩師M先生は、愛は全てを乗り越えるを、クリスチャンでない人にわかりやすいように、愛を好きに言い換えたのだろうと、私は気がついた。
そして、教会に通い始める前の数年間(今もだが)、私が関わり続け、学び続けた技法は、好きの力を使う技法だ。
好きからはじめなさい。
そういうことだろうと、私は思った。
その頃、もう一つ、私が個人的にプロテスタントのクリスチャンになるために、言われたことがあった。
聖書の登場人物の中で、ジーザスと出会うはるか前の前の前から、私が関わり続けてきた存在がある。
マリアさまだ。
幼い私が、祈ったものは、マリアさまだ。
プロテスタントでは、マリアさまは信仰対象ではない。
マリアさん、だ。
同じ教会の人たちは、「ともかくYさんは、マリアさまと付き合いが長い。ジーザスのことはよく知らない。だから、まず、ジーザスとも仲良くしてみるのはどうだろう?」と提案してくれた。
そうしてみようと私は思った。
でも、マリアさまはマリアさまだった。
マリアさまが、神さまかどうかは、はっきり言って、私にはどうでもよかった。
でも、マリアさまは、小さな私を許し続けてくれたのだ。
カトリックなら、マリアさまのまま行ける。
私が最初に行こうとしていたプロテスタントとカトリックの間にある宗派でも、マリアさまでいける。
私は、迷い続けた。
クリスチャンになることには、何の迷いもなかった。
私が迷い続けたのは、カトリックかプロテスタントかだ。
やがて、洗礼のお勉強会の日。
私はとても楽しかったけれど、まだ、マリアさまについて、考えていた。
私が、「マリアさま」と言ったのを聞いて、たまたまその日、そこに遊びに来ていた人が、「でも、マリアが信仰対象じゃないってことは、あんた、わかってんねんやろ?」と言った。
私は、「しばくぞ、お前」、と思った。
(こんなことは思ってはいけない。)
気が弱い子なら泣くよ、あんた。
とても大事なものを、踏みにじられた気がした。
洗礼のお勉強会でなければ、しばくぞお前と、本当に言ったかもしれない。
私は、気が強い。
しかしそこで、牧師さんが、こちらを見て、にっこり笑って「信仰対象だったのでしょう?」と優しく言った。
それで、私は、救われた。
はい、と、私は言った。
牧師さんは、にこやかにうなずいた。
私は、私の大事なものをわかってもらえて、とても嬉しかった。
この人に洗礼してもらえるなんて、私はラッキーだと思った。
私は、何かとても大事なことを教わった気分になった。
愛するっちゃこういうことだ!と思った。
よし、これだ、と思った。
他人が信じるものを、踏みにじるようなことは、私はしない。
そう決めた。
その人がどんな気分になるか、味わったからだ。
私は、聖書やジーザスについて、誰が何を言っても受け入れると決めた。
洗礼のお勉強会で、私が教わった一番大事なことはこれだ。
そもそもね、ことばが同じでも、同じものを感じてるとは限らない。
ことばが違っても、単に表現が違うだけで、同じものを感じてる可能性もある。
人は、同じようには理解できない。
メタファーオンパレードの書物について、自分と全く同じ理解を持てる人はいない。
それこそが、私が数年、たたきこまれ、この目で見、この耳で聴き続けたことだ。
そして、どんな話でも、興味を持って聴くことが、その技法の基本だ。
私は、まず、しばくぞお前と思った人の発言を許した。
その人がここまで辿ってきた道のりは、自分とは違うのだ。
しばくぞお前と思う私が、クリーンではない。
相手の価値観を尊重できていない。
私が悪い。
私はそう思った。
それで私は、この話はここまで、誰にもしなかった。