信仰という世界観。他人の世界観を尊重する

この一年、信仰は、個人の世界観極まれりの世界だなと、何度も感じた。

一神教とは言うが、その世界観は、個人によってまるで違う。
ジーザスから感じているもの、聖書から感じているもの、そこから自分の人生に取り入れているもの、まるで違う。

愛についての理解も違う。
祈りについての理解も違う。

魂が救われることだけに意味があると思っている人もいれば、現実を救わねば意味がないと思っている人もいる。


家族全員がクリスチャンでなければ祝福されていない、何がなんでも家族全員クリスチャンにしなければと考える人もいれば、信仰の自由が保証されない家庭で、家族から信仰を押しつけられる人は気の毒だと考える人もいる。


福祉こそクリスチャンのためにあるような業界だと考える人もいれば、日本では福祉はクリスチャンの仕事ではないと言い切ったクリスチャンもいる。
それもまた、その人の世界観だ。


稼ぎの10%は寄付しなさいと聖書には書いてあるが、寄付は教会にしかしないクリスチャンもたくさんいる。
それもまた、その人の世界観だ。


信仰が、その人の人生に与える関わりの深さも人それぞれだ。
神さま第一の人生を送る人もいれば、そうでない人もいる。


カルト信仰ではないけれど、カルトみたいな考え方をする人もいれば、お寺さんがジーザスに変わっただけみたいなライトな人もいる。


人生修行的な、それ仏教?というストイックな考えの人もいれば、はい、ありがとうありがとう、たのしいねえと、のりのりラテンな人もいる。


いろんな世界観が、そこにはある。
実にバラエティ豊かな色彩にあふれた世界だ。



そして、一年経ち、ジーザスが言ったたったひとつの命令、戒め「互いに愛しあいなさい」を、私は自分の概念に置き換えて理解することができた。

それは、私にとって、仲良くしなさいという言葉にはならなかった。

私の中では、それは、相手を好きでいる努力をすること。
それから、相手の世界観に敬意を払い、尊重し、踏みにじらないこと。
胸をポカポカさせながら、そうすること。

そう、翻訳された。


そして、私は、ジーザスはあっぱれだと思った。

クリスチャンになる前に、大事なことを、名前を名乗らずに教えてくれた。
先に教えて、先に身につけさせていた。

押しつけることなく、私が自然に、自分の人生の体験の中で、それを覚えられるようにしてくれた。


そして、クリスチャンになるほんの手前のところで、私に、自分のそれが踏みにじらたらどんな気分がするかを、ほんのちょっと味合わせて、教えた。

けれど即座に、助けの手が入っているから、私はそれでダメージは受けていない。
学んだだけだ。


そして、大事なことを全部先に教えてくれて、それから、私をクリスチャンにした。

笑いだけの中で。


「さて、ここからは、君の願いを好きなだけ叶えよう。」

クリスチャンになってくれたからね、僕を信じると言ってくれたからね、ようやく、君の願いに手が出せる。

私には、ジーザスがそう言ってるみたいに感じた。


ジーザスは、人を救うのは、クリスチャンにでなくてもやる。

痛みを抱えた人、困難の中にある人のことは、自分を信じようが信じまいが助けている。
聖書の中でも、しょっちゅうやってる。
その人たちは、助けられたから、信じるようになったのだ。


困ってる人を、自分を信じるか信じないかで助けるかどうかを決める神さまは、名前はなんでも、この世にはいないと思う。
そんなケチは人間にはいるかもしれないけど、神さまにそんなケチはいないと思う。

そして、人の温もりを、そこに使う。
人は、人の温もりに救われる。
その人が何を信じているかは、温もりに関係しない。

その人自身に信仰は関係する。

ジーザスは、教えることは、自分の名前を出さずともやる。
私にそうだったように。
その人にとって、最高の学びの場所は、教会の中にあるとは限らない。

もちろん、教会にもあるだろうが、私は多分だけど、教会の中では、自分は、愛することを学べなかった気がする。


私にとって、教会は、愛することを実践する場で、学ぶ場ではなかったということだろう。
でも、最後のしめは、ちゃんと、ジーザスがやってる。


私がクリスチャンにならなければ、ジーザスにしてもらえなかったこと。

"わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。"
ヨハネの福音書 16章23節


ジーザス・クライストの名によって、祈る。求めること。

それが、私がジーザスと仲良くならなければできなかったことだ。



そして、私は、自分がなぜ、洗礼式で、大爆笑したのかに気づいた。

だって、今から、私の願いは、なんでも叶うのよ?

笑いが止まらないでしょ、そりゃ。


これが、私の世界観。

そして、マリアさまは、結局、今日もまだマリアさまだ。

ジーザス、気にしてないみたいな気がする。
だって、自分のお母さんだからね。
お姑さんを嫁が大事にするみたいなもんよ、多分。


それが、私の世界観。

だいぶ、独特らしいよ。
人の参考にはならないんだって。

でも、話のネタとしては、珍しい方が面白いから、ジーザスは、いつか、私がブログに書くことも知っていたのかもしれないね。


という、世界観。

これは、私にとっての真実だけど、事実かどうかはわからない。

それが、世界観。

God bless you⭐️