ぶどうの木の絵のはなし

その日曜日、メッセージ担当のSさんは、「今日はまず、ぶどうの木、枝、葉っぱ、実を紙に描いてみませんか?」という言葉から、聖書の時間をはじめた。

その日、みんなで読む聖書の箇所が、ヨハネの福音書15章だったからだ。

そこに書かれているジーザスと弟子(私たち)の関係性は以下の通りだ。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
ヨハネの福音書 15章5節


ちなみに、こことは違う節に、私の父は農夫だと書いてある場所があり、農夫は伸びすぎた枝や葉っぱをばっさり刈り取る。

ね、人間目線でみると怖いでしょ?
ジーザスのお父さんの方は。
感情とか関係ない。
思い切りがいい。
小さなひとりの人間のことというよりは、大きな世界全体を眺めてるんでしょね。

大丈夫、息子、優しいから。
そして、小さな弱い一人一人を愛してるから。
とるに足らないので、お父さんは相手をしなかったとこも相手をしてるから。

キリスト教の神さまは、ジーザスとジーザスのお父さんの持つ性質を併せ持つ。
お父さんについては、旧約聖書に詳しく書いてある。
ものすごいパワーだけど、やること時々怖いわ〜、そして厳しいわ、お父さんと思いながら私は読む。

ジーザスが守りなさいよ、約束だよと言ったことは私は守れている気がするけど(ひとつしかないし、私が守ろうとするには理由がある)、ジーザスのお父さんが、守りなさいよと言ったことは、ほとんど守れてない気がする。
いっぱいある。

このお父さんと人間がした約束を変えるために、ジーザスは命を差し出した。
ジーザスのお父さんがそのように計画した。

神さまは生贄や代償を要求しない。
そうしないでいいようにするために、自分の息子を、そうしないでいいようにするための生贄に使った。

神さまなんだから、勝手に約束変えればいいと思うけど、そうはしなくて、ちゃんとそれまで人間としてた約束の手順を守った。

私が、毎日、書いてるのは、ジーザスのお父さんが、神さまと人間との間の約束を守ることを非常に重く扱うからだ。

私は、神さまに願いを託した。


それはさておき、とりあえず、みんなはそれぞれA4のコピー用紙に思い思いのぶどうの絵を描いた。

すると、ジーザスが生きた場所と時代では起きなかっただろうことが、そこに起きた。

バラバラのイメージのぶどうの木、葉っぱ、枝がそこに現れた。
実はまあね、みんな大体同じだ。
食べますもんね、ぶどう。

みんな、わいわいとそれぞれの絵を比べた。

そして、私はそれを見て、「これでわかった!」と思わず言った。

Sさんは、にやりと笑い、「では、正解を」とぶどうのイラスト入りの育て方について説明されたプリントを、みんなに配った。

そして、全員からつっこまれた。

「なぜ、鉢植え?!」

そう、そこに描かれたぶどうは、子供が夏休みに朝顔を育てるみたいな茶色い鉢植えに植えられていた。
ベランダ栽培か?

みんな楽しそうに笑った。

Sさんは完璧主義者だが、なかなかお茶目な都会っ子だ。


私の描いたぶどうの絵は正解に近かった。
なぜなら、私はぶどうの木を見たことがある。
それから、過去に、ぶどうを使ったデザインを仕事で扱ったことがあった。

Sさんは言った。
「僕は他でもぶどうを描いてみてもらったんですが、大きく分けると、描かれるぶどうの木の絵は2パターンに分かれます。」


りんごや桃みたいな木のパターン。
それから、ツルのパターン。


私は、「わかった!」とまた言った。

私はずっと不思議だったのだ。

ぶどうの木は細い。
すがりついたら折れてしまう。
依存しようがない。

それなのに、ジーザスにすがりつく感じの人がいることが。


一生懸命、お日様に向かって枝を伸ばさなければ、ぶどうの葉はつかないし、実はならない。(いらない葉っぱがつきすぎたら、バサっといかれるが、それにしてもその前に枝を伸ばして、葉っぱをつけないとどうしようもない。)

それなのに、じっとしている人がいることが。

ジーザスはそこにいるけれど、ジーザスに頼るだけじゃ、ぶどうは実をつけられない。
枝は伸びていく必要がある。


ただ、木を離れると枝は枯れてしまう。
木とくっついとく必要がある。
ぶどうは接木だから、木から離れられる。
そこは自由だ。
生まれながらのクリスチャンはいない。


そうか、ぶどうをりんごの木みたいな木だと思ってるのかと、私は思った。
そうだな、りんごの木ならもたれかかっても折れない。
それで私は、思ったそのまま、そう言った。


すると、うまい具合にりんごの木みたいな木を描いていたおっちゃんUさんが、私に「わかってるよ。あんた、僕に依存してると言いたいんやな」と言った。

私は、笑いながら、「そんなことは言ってませんよ。ただ神さまのイメージが、人によってどうしてこんなにも違うことがあるのだろうと、私は前から不思議だったんです」と言った。

おっちゃんUさんは「わかってるよ」と、いまいましそうに私にもう一回言った。
聞こえなかったが、「この小娘が」と心で思ったかもしれない。
かもしれないじゃないな、思ったな(笑)

私は、おっちゃんUさんのことを言ったんじゃなかったけれど、面白いので、それ以上訂正しないでおいた。


そして、私はもう一度、Sさんに向かって、「これで納得できました」と言った。

Sさんは黙ってうなずいた。