信仰の効果

私は、神さまが偉大だから崇めることにしたんじゃない。

なぜなら、私は中世にも、2000年前にも生きていない。
心理学や哲学を学んだ科学の子だ。
認知の仕組みは、少しは頭に入っている。


というわけで、「神さまが存在する世界」の効果について、本日は書いてみる。


なんで、今さら、わざわざ神さま?と、たくさんの人が聞いた。

なぜなら。


私は弱くない。
依存するもの、すがるもの、人生を救うものを求めていない。
自立心は旺盛だ。


私は、自己受容、自己肯定はできている。
疑う人は、ブログを最初から読んで頂きたい。
私は、かみさまに受容され、神さまに愛されていなければ、自分の存在価値を認められない人ではない。
それは、自力でできる。

私は、神さまに言われなければ人に優しくできないわけじゃない。
神さまが言うから他人を愛する努力をするわけでもない。
私はそもそも人間が好きだ。
人には割と親切にする。
それは、かみさまではなく、母の教育で当たり前のこととして覚えている。


友達はいる。
教会に頼らずとも、私は人との繋がりは作れる。
社会の中に、自分の居場所はある。
家族もいる。
孤独とは無縁だ。


ちなみに、ここまで書いた内容は、神さまだけにすがってきた人には衝撃かもしれないが、神さまでなくても、それを解消することはできる。
むしろ、それらが必要なら、神さまではなく人間を頼る方が早いだろう。

なぜなら、神さまは人の心だけをやっているのではないが、人間は、それぞれ、専門分野を一生懸命、ただそれだけを追求し続けてきたからだ。

これは、私の偏見だが、クリスチャンは、人を救いたかったのは、まるで神さまだけみたいなことを言うことがある気がするけれど、人を救いたかったのは、神さまだけではない。

人は、人を救おうと、人は、人の現実をなんとかしようと、人は、人の人生を助けようと、ずっとずっとしてきた。
それが見えないなら、目に鱗が張り付いている。


クリスチャン的にいうなら、神がそのように人を作ったからだ。
神さまに救われるのを待つだけの人間を、神さまは作らなかったと、私は思う。
その人達を救おうとする人間も、また同時に作ったと思う。
人と人が助け合うように、人を作ったと思う。


そして、人を救おうとした人は、多くを見つけ、多くを人のために使っているし、使ってきた。
21世期の科学をなめてはいけない。

心についてなんとかしたいなら、聖書より心理学が早い。
私はこれは断言できる。


魂、と、語られる内容のほとんどは、教会の外で、ノンクリスチャンが、心、という単語で話す内容と同じだ。

救われたいのが、魂でなく心なのならば、神さまでなくても、それは救える。
むしろ、神さまより、人の温もりの方が効果は高いだろうと推測する。



私にとっては、「神さまがいる世界」の効果は、そんなことではなかった。