優しいのが好き

私がひとつ、クリスチャンになった後に、受容したことがある。
自分は、恵まれていると受け入れよう。
それだ。

ジーザスが、私に用意したのは、恵まれた環境だ。
これをいわゆる恵みというが、私はほんとに自分は恵まれていると思った。

信仰を変える(厳密にはそれほど変わってない。ジーザスのお父さんの部分は、3歳くらいからずっとあった。)と言った時、誰も何も反対しなかった。

頼んでないけど、夫は習慣がつくまでの最初の一年、私を礼拝に送り続けた。

ここまでで、すでに珍しいらしかった。
恵まれてますねと、いろんな人が私に言った。


それ以外でも、私は、自分が、いかに恵まれているかを、この一年、感じ続けた。
それまでもわかってはいたが、さらに感じ続けた。


神さまからの恵みは誰にも降り注ぐが、じゃあ、現実、みなが平等なのかといえば、それは違う。
人生はさまざまだ。

自分は、本当に、恵まれている、と、私は思った。
何かにぬくぬく守られて、なぜだかわからないが危機一髪でいろんなことが回避され、ともかく、何かに守られて生きてきたと思った。

周りには、奇跡的にいい人が集まる。
だいたい、困っても、誰かが必ず助けてくれる。


「あなたは、それをちゃんと感じて、それに感謝するから、あなたは幸せで守られ続けるんですよ」と私に言った人がいたが、それだけでもあるまい。



そして、最近思ったことがある。

なぜ、恵まれてるか、なぜ、それを神さまが私に用意したのかといえば。

私が、他人について祈ったり、他人のサポートを一生懸命したり、自分のことを構わないでそれができるように、ジーザスは、私には、ぬくぬくとした環境を用意したんだろうと、私は思った。

私はいい人じゃないから。
できた人でもないから。
自分が大変なら、多分、自分を優先するから。
余裕があれば、人を手伝うが。
だから、余裕を用意してくれたと思った。

つまりは、私に、人のために祈ったり、人を手伝わせたりしたいのだろうと思った。
そりゃそうね。
聖書に書いてあるもん。

行ってきなさいって。
やらないと「信仰の薄いものよ」って怒られちゃうわ。


ジーザスは名羊飼い。
私は、ジーザスのめえめえ羊。

この羊は、自分が安全な状況でなければ、怯えて他人のことはしないだろう。
じゃあ、他人のために祈ったり、他人の世話がちゃんとできるよう、ぬくぬくとした環境を用意しよう。

礼拝にも、嫌なことがあれば来なくなってしまうだろう。
じゃあ、続けられるように、楽しい環境を用意しよう。

しっかりやるんだよ。
用意したからね。


なんか、そんな感じ。


つまりは、ジーザスは、私に成長しろとは言わない。
できの悪い羊には、それでもできる環境を用意してくれる。

恵まれていることに気づき、感謝していれば、欲しいものを用意してあげるから言いなさいと言う。

そして、本当にそうしてくれる。
しんどい中でやれとは、私には言わない。
私にはそれはできないからだ。

その人の好みとか、性格とかに、本当によく合わせてくれる行き届いた神さまが、ジーザス。


本当に、この一年は、凄かった。
あ〜やだわ、と、私が思うと、その人は、自分が何にもしなくてもいなくなる。
これはさすがに前にはなかった。

ありとあらゆる私の嫌だを、ジーザスは取り去る。
だいたい私が嫌なのは、誰かの自分勝手さから生まれる揉め事や悪口の溢れる環境だが、嫌と思えば、すみやかに、それは取り払われた。

すごすぎると、私は思った。

ともかく機嫌よくいなさいという感じが強い。

なぜなら、この羊は、しんどいのは嫌いな性格の羊だからだ。
ジーザスは、よい羊飼いなので、羊をご機嫌に飼う方法に詳しい。

ご機嫌じゃなきゃ、君はついてこないでしょ。
じゃあ、ご機嫌でいたらいいよ。


しっかり働くんだよ。
人のところに行って、笑っておいで。


私のジーザスはそんな感じ。
優しいからジーザスが大好き!


そんなある日、おっちゃんUさんと、私の神さまは、対極的な感じだと、Yさんが言った。