教会のことば

価値観て、ありとあらゆるところに影響するなと、私は、キリスト教を信仰しはじめて、さらに感じはじめた。

ものすご〜く、その人自身の価値観が透けてみえる。

お題が一つ、たった一つ、こんなことは日常に他にはないけれど、ジーザスを信じるそのただ一つにテーマが絞られた時。

私は、そこに神の姿ではなく、丸裸にされていく人の姿を見た。
これね、誰にも言ったことがない。

「同じものを信じる」人が集まると、その人の価値観、性格、本音が、ものすごく現れる。

神が愛しなさいと言った人間を、愛してるか、嫌いなのか、好きなのか、自分に都合がいい人は好きなのか、人を上から見てるか、対等に見てるか、そして自分自身を愛しているか、なんか、そういうの、全部、丸裸。

条件付きの自己受容が異常に多い。
外で多いのは、親が愛してくれるから、パートナーが愛してくれるからという条件付きだが、教会では、神さまが愛してくれるからという条件。

条件付きの自己受容は、もろい。
条件の顔色を伺う必要がでてくる。
そして多くの場合、絶対的に愛されているという信頼を持ちにくい。
なぜならば、自分が自分を受け入れていないからだ。


面白い、と私は思った。

教会や礼拝は、神と交わるだけの場所じゃなく、そこには、人間がいる。

面白〜い!と、私は思った。



それで、神さまはどうして、私に先にクリーンランゲージを学ばせたか、しばらく考えた。


なぜ、私自身の問題については、名乗らないままジーザスが手伝ってくれたかを考えた。
そして、私は幸せだと言い切れる状態にしてから、ジーザスを信じる人の中にいれたかを考えた。


どうしてM先生というクリスチャンに合わせたかを考えた。
M先生は、これまで私が会った全部のクリスチャンの人の中で、一番、聖書の中に出てくる弟子みたいな人だった。
でもね、M先生は、教会からは弾き出されていた。
M先生を支え続けたのは、ぶどうの木だ。

ジーザスと自分を繋ぐのには、何の媒介も必要としない。
私たちは、ぶどうの枝なのだから。

M先生が私に教えてくれた。



どうして、自分のホーリースピリットのバプテスマ(自分で調べてね〜)は、教会に行く随分前に終わっていたかを考えた。
洗礼には二種類ある。
私の洗礼は、一般的な洗礼の順番とは逆に起きていた。


そして、なんで、いまさら、クリスチャンの人と交わらなきゃいけないかを考えた。




教会に通いはじめてすぐ、私は、一神教の神さまがバックについた時、その人の自己主張がものすごく強くなるという特徴があることに、気がついた。

そしておそらく、その人たちは、神さまのこと以外は主張が強くない人だろうから、主張の仕方に工夫がない。

何かを売る営業マンとして考えるなら、レベルが低いと私は思った。
これは、クリスチャンの人に会うたびに思っていた。

話が下手くそすぎる。
伝えたいなら、どうして、伝え方を練習しない?


自分は正しい、という人が、こんなにたくさん集まっている場所を、私は見たことがなかったので、私はびっくりした。

議論好きということじゃない。
議論は、私も好きだ。

自分が正しい人、が、多かったのだ。
相手が、自分が話す言葉の意味がわからなかろうと気にもしない。
わからない相手が悪いのだ。


ボキャブラリーが貧困。
なぜ、自分の体験を語るのに、自分の言葉で説明しない?

なぜ、若い人が借り物の身につかないフレーズでしゃべる?
あなた、それ、普段、嬉しい時にそう表現する?


その人たちの信仰には難がない。
あるわけない。

信仰は、ひとりひとり、尊重されるべきもので、間違いがわかるのは、神さまだけだ。


丸裸にされていることに気づかない、言葉に難あり人口の比率が、考えられないくらい高い場所が、猫を助けてくれたから働きます!と約束した私を、神さまが送りこんだ業界だった。


私は、これは面白そうだ、と思った。
そして決めた。

私は一切、言葉を変えない。

自分の言葉のまま話し続けた時、そこに何が起きるかを見てみよう。


私は静かに内緒で実験をはじめた。