みこころと自己
自分という言葉。
教会の中では、これをエゴと翻訳する人が多いイメージがある。
そして、エゴ(自我)はネガティブに解釈されているようだ。
自分という言葉を人がいう時、不思議なことだが、なんか卑屈な感じがする。
エゴ(自我)には、自分と他人を分ける働きがあり、この言葉は、必ずしもネガティブな意味を持たない。
エゴが強すぎたり、弱すぎたりすると弊害がでるので、エゴが健康的であることは重要だ。
話はそれるが、セッションで時たま耳にする、私はエンパスなんですというスピリチュアルマニアの人には、単にエゴが未成熟で弱いだけの人が割と多い印象が個人的にはある。
そういう人は、エゴを弱めるトレーニングはしちゃいけない。
必要なのは、エゴの強化だ。
Weの文化を持つ日本は、一般に、西洋社会より、自我が弱い人が多いと言われている。
キリスト教は、西洋で発達した宗教だから、そもそもの対象となっていたのは、Iの文化の人々だ。
このあたりは、日本人に運用する時は、少し別の要素を必要とする感じがする。
自分が、そもそも、弱いところに、自分を置き去りにして、神さまを優先させると、なんか違うことが起きる気がする。
個人的な感覚ね。
さて、話は戻って。
自分にはもうひとつある。
自己。セルフ。
自分自身。
教会の中では、こちらの自分は語られないイメージがある。
キリスト教には、自由意思という概念があるわけで、選択は自己選択なわけだから、自己はもう少し語られてもいい感じがするが、こちらは語られない。
みこころが優位だ。
みこころは、かみさまの願い、思い。
もう一つ言うと、人間の思いは全て与えられるということになっている。
でも自由意思はある。
この辺、私は理屈っぽいので、普段なら矛盾をツッコミまくるところだが、それはしない。
信仰とは、理屈ではない。
あんまり深く考えないことにしている。
で、だが、しかし。
自己は必要と思うね。
かみさまを認知するのも、自己の認知においてだし。
願いも、でどころは自己だし。
自己があって、それからかみさまという気がするねと、私は最近、よく思う。
おっちゃんUさんのおかげで、さらに、そう思う。
いつ叶ってもいい願いを、Uさんが、ちっとも叶えようとしないからだ。
そこには、みこころと自己の関わりが関係しているようだった。