聖餐式
不気味な儀式について書こう。
その名は聖餐式。
何をするかというと、ぶどうジュース(赤ワインのとこもある)と、パンをちぎって分けたものを食べる。
なんでやるか、興味がある人は検索していただけば、私の適当な説明ではなくちゃんとした説明が現れるので、説明は省く。
パンは美味しいパン、ぶどうジュースは美味しいぶどうジュースを用意するということに、私の教会ではなっている。
美味しい方が感謝しやすい。
だから、味には問題ない。
しかし、聖餐式。
これが、、、怖い!
はじめて見た時、私は、気持ち悪!と引いた。
まだ、洗礼を受ける前の話である。
クリスチャンになったら変わるかしらと思ったが、やはり聖餐式はしんどかった。
パンとジュースは美味しいが、怖い。
はっきり言って、喜びと感謝は、私には起きなかった。
それで、私は、聖餐式は、忍耐を学ぶ時間ということにした。
数ヶ月前、おばあちゃんのSさんが、礼拝後、私にそっと近寄ってきて言った。
「Yさん(私)、あれ、聖餐式、どうにかならないかしら?もう雰囲気が重くって。しんどいわあ。」
Sさんは、クリスチャンになってから40年くらい経つ。
そのSさんが、しんどいというのだから、私が気持ち悪いのは仕方ないだろう。
私は、「私は気持ち悪い」と言った。
そして2人はわはははと笑った。
Sさんいわく、聖餐式は教会によってやり方が違うらしかった。
こんなのとかね、こんなのとかね、と、Sさんはいろいろ教えてくれた。
「めぐみを感じるようにね、したいのよ。」と、Sさんは言った。
私の通う教会で、聖餐式をしきっているのは、おっちゃんUさんだ。
どうやら、おっちゃんの仕切り方が重いらしい。
「なんか決まったやり方はあるんですかね?」と私は聞いた。
Sさんは、ないわよ、そんなものと言った。
アットホームでカジュアルな私たちの礼拝から、聖餐式だけは、確かにムードが浮き上がっていて、それで余計、怖い。
私は「じゃあ、今度、みんなに提案してみましょう」と言った。
教会の中では、時々、あれどうする?これどうする?と、それぞれが疑問を抱くことをみんなで話し合って決める。
お茶を飲みながら、雑談の中で。
考えや性格が違う人が集まっているが、それぞれが違いすぎるので、話合いはもめない。
おっちゃんUさん以外からは、こうしませんか?という、そういう意見が割と出る。
Uさんは、決まったことに、不満は抱くが疑問は抱かない。
私が、おっちゃんUさんを、実験相手に選んでいる理由のひとつは、それ(不満は抱くが疑問を抱かない)が、長年の自分の経験から、願いが叶いにくい人の特徴のひとつだったからでもある。
なんで?は、願いの卵だ。
不満も願いの卵だが、自ら動けば変えられるということに気付いていない時、それは受精前の卵だ。
そして、しばらくした後、礼拝後に私はみんなの前で言った。
「聖餐式なんですけど〜。」
そして、その日の話し合いで、聖餐式のやり方を少し変えることになった。
数ヶ月後、おっちゃんUさんは、聖餐式の仕切りをもとに戻した。
さて、そこには、何か隠れた望みがありそうだと、私は気がついた。
面白くなってきた。