女性差別の宗教

私は、聖書を存在は聖典、内容は一部については、古典および歴史書と理解している。
内容は、パーフェクトな聖典だとは思っていない。


聖典は、神さまが書いたものじゃないので、神さまの優劣とは関係ない。
人間が書いたものだ。
神は筆を持てない。


もしも、聖書をパーフェクトな聖典として理解している人が現代にいるなら、その人は、現代の概念では、とんでもない差別主義者だ。
人種差別に、女性差別。
聖書は差別に満ちている。

"女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。

もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。"

コリント人への手紙 第一 14章34~35節


ここ修正しろやと、私は時々思う。
だって、コリント人への手紙を書いたパウロ自体が書いている。

預言はすたれる。

完全にこの部分はすたれているのに、すたれたものを、そのまま掲載するって愛なの?と、私は時々思う。

パウロの書いたものは、好きな部分もたくさんある。
キリスト教は彼無くしては成立しなかった。
ほとんどパウロ教と言ってもいいくらいだが、しかし、ここについては、パウロがそう書いたのは、彼が生きた時代の考えとしては理解できるが、何故、その後ずっと更新されず、聖書に記述され続けているかが疑問だ。


これは、神さま、ジーザスを信じる信じないというのとは別の話だ。

女性や人種を侮辱し続けている書物を、私は、21世紀における完璧な聖典とは認めない。

なんで、訂正しようとか、そこは削除しようとかいう声がないかが不思議だ。
クリスチャンの人口比率は、男性優位なのかしら?

知らんけど。

ほんでまた、もしも、この箇所を礼拝で読むことがあったら、私はきっと外へ出る。
多分、そんなことないとは思うけど。


だから、私の中では、聖書は存在は聖典、一部古典と歴史書という不完全な聖典という理解。