久々にメタファーのはなし

久々にメタファーの話を。
メタファーは比喩、例え。

私がセッションで使う技法でも、メタファーを使う。
その時、メタファーのある場所を必ず聞く。
理由は、体感を作るためだ。

体感のない頭だけで空想するメタファーより、体感を持つメタファーは強い。
それが、リソース(その人が価値を認めたり好きだったりする、その人を助けるもの)であれば尚更だ。

アウトカム(希望、望み、起きて欲しいこと、ゴール)のメタファーも、体感がある方が現実化しやすい。


セッションをしている間に気がついたが、人は2つに分かれる。
その自分がイメージしたメタファーを信じる人と信じない人だ。

私は、セッションを続ける間に、メタファーで語ることをただの空想遊びととらえ、メタファーを信じない人にもメタファーは機能するが、信じた人の方が現実化が早いことに気がついた。


それは、メタファーの話ではないと、私は思った。
自分を信じられるか、信じられないかの話だと感じた。

自分の言葉を信じられるか、信じられないか。
自分自身の言葉や発想を受容できるか、肯定できるか。

それまでの自分の考えにはない突飛な話が飛び出した時、それを面白がれるか、面白がれないか。
採用するかしないか。


メタファーの世界の話は、突飛なことが多々ある。


その突飛な話を信じられるか。


信じる力、言葉を変えれば、信念がもたらすパワーはすごいと、私はセッションを通じて感じ続けた。

何をメタファーとして信じるかは、人生を変えてしまうくらいの力を持つかもしれないなと思った。


自分の脳や体が認知するものが存在するもので、脳や体が認知しなければ、それは存在しない。
あっても、その人の世界には存在しない。
知識としては、存在できる。


今、多くの人が、「目には見えないもの」が「空気中」または「体の中」にあると想像し(小さすぎて顕微鏡なしでは認識はできないから、それはある意味メタファーだ)、その「目には見えないもの」の概念定義に基づき、行動を変化させている。
それは、人生や社会を破壊しかねないパワーがあるという概念定義を信じて、行動を変化させている。

しかし、全く行動を変えない人もいる。
大したことはないと信じている人は、行動は変えないだろう。
現実として、自分の身にふりかかるまで。

今や誰もが知るその「見えないもの」の名前は、たしかに、メタファーとしての働きをしている。



これと同じことは、他のメタファーでも起きる。
個人の行動を変える力をメタファーはもつ。

それが「ある、存在する」と信じるなら。
自分にとってそれがある場所がはっきりしているなら。

メタファーには、名前が必要だ。
素早くその情報にアクセスし、再現性を高めるために。

そして、力が強いメタファーは、体の外にあるメタファーではなく、体の中か、体の周囲に感じられるメタファーだ。
体感を伴うメタファーだ。


ここ最近で、行動を変えた人、なんとなくストレスを感じている人、不安を感じる人は、メタファーの力が使える人だ。
想像し、信じる力を、人生に使える人ではないかと推測する。

ここしばらく、人間の社会が持つ可能性を、むしろ、私は感じている。