ぶどうの木のはなし

幼稚園の時、子供会でぶどう狩りに行った。
父に抱きかかえてもらい、はさみで、枝になった大きな紫色のぶどうを、パチンと採った。
ぶどうは甘くて美味しかった。


小学二年生の時、ワイナリーで、父の会社のバーベキューがあった。
赤い半袖のコットンのワンピースを着ていた。
子供たちは、一面に広がるどこまでも続くぶどう畑の中を走って遊んだ。
細い幹でつるが綺麗に伸びて、美しい黄緑色のぶどうがなっていた。


大人になって、病気のM先生に手紙を書いた。
M先生からの返事は、ぶどうの木の絵が右下端に描いてある便箋に書かれていた。
ぶどうのツルが、枠に使われていた。


私の中にある「ぶどうの木」と「ぶどうの枝」「ぶどうの実」のメタファーに関連する記憶は、この3つしかない。

メタファーは、記憶と体験から作られるが、私が持つぶどうの木に関わる体験は、それだけだ。
珍しいパターンだけれど、はっきりしている。


さて。

ぶどうの木は、聖書の中に登場する。
ヨハネの福音書15章の始まりからしばらくの節だ。
ここは、とても有名だ。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」
ヨハネの福音書 15章1節

“I am the true vine, and my Father is the husbandman.”
‭‭John‬ ‭15:1

英語の方のhusbandmanはgardenerの聖書もある。



そうそう、英語でも訳は割れている。
元はギリシャ語で、英語とは親戚な言語だけれど、それでも、聖書ごとに訳はちょいちょい異なる。
私は、家では、いくつかの英語の訳を並べて読む。
今はね、アプリがあるから便利だし、これすると英語の類似語が覚えられるから便利なのだ。

ジーザスは、私の英語学習にも協力的で(笑)、私がなんで?と疑問に感じることは、ほとんど英語で探さないと、書いているものがない。

私が好き勝手書いている理由の一つは、ジーザスや聖書のことを、日本語で好き勝手書いてくれているものを(日本語の方が読むのが楽だ)、自由に考えている人を、私自身が探したからでもあるのではないかと思う。

求めたものを、ジーザスは、私に宿題として与えたのではないかと、今朝、ふと感じた。

求めよ、さらば与えられん。

欲しいの?
それなら、あげるよ。
英語にあるように、自由に僕のことを楽しくのびのびと書いてあるものが、日本語で書かれたものが欲しいんだね。

あげるよ。
自分で書きなさい。

ほら、あったでしょう?
よかったね、もう、あるよ。
君の望み通り、日本語だ。

喜びなさい。


気づいた私は、ひとり、爆笑した。
喜びって、私の場合は、だいたい爆笑しとんな、そうか、洗礼式も、爆笑したのは喜んでたのかと思いながら。


ジーザスは、やれ、という神さまだ。


そして、分けなさい、という神さまだ。

ジーザスは、私に与えると同時に、人に分けさせた。
私に、ひとりじめはさせなかった。


ぶどうの話は続く。