不思議な感覚

こういう時、こういうというのは、世の中全部に関わるような大きなことが起きている時、いつも思うことがある。
これは、昔にはなくて、今特有のことだろうけど。

その人が、何から世の中の情報を取っているかによって、住んでいる世界がまるで異なること。
置かれている環境も個々に異なるので、それはもちろんそうだけど、何から情報を得ているかでムード感というか、そういうものは随分異なる感じになるなあ・・・と思う。

私は、今回に関しては、自然災害とは違うので、緊急の何かはないだろうと思っていたから、最初に遮断したのはテレビの情報だった。
それに、緊急の何かが発令されたら、スマートフォンがなるだろうと思っていた。
過去の度重なる自然災害の時の報道を見てきた限り、テレビは映像としてインパクトがあるところを探して流したり、作り込んだりして、感情を動かす感じの構成にする。
私はあれが嫌いだ。


次に遮断したのは、厚生労働省と自分の住む自治体が出す情報以外のネットニュースだった。
役所の情報は、最初に数字が登場するので、イメージに惑わされにくい。
同時に、私は最初に2018年の肺炎の死者数を確認した。(2019はまだ出ていないかもしれないと思ったからだ)
約94000人が、肺炎で亡くなっていた。
日本の死亡理由5位だった。
日割り計算すると、一日約260人だ。

そしてそれから薬の情報が出るまでは他のニュースも見ていたが、薬がどうにかなりそうだという感じのニュースを確認したところで、他はもういいことにした。
私が気になっていたのは、薬ができるかどうかだけだった。
これは病気の話だから、薬ができればそこまでだ。
それから、回復者数も毎日増えていて、不治の病ということではなさそうだということがわかった。

それから、気をつけることを確認した。
自分が感染しないようにと、それから、もしかしたら、自分は無症状なだけかもしれないだけなので、人にうつさないようにするために気をつけること。
手洗い、うがい、マスク。
ご飯はしっかり食べて、よく寝て、よく笑い、混んでる場所には行かないようにすること。


経済ニュースは気になったけれど、そもそも私の仕事はいつでも不安定なので、まああまり関係ない。
時間ができたら、次を考えるだけだ。
気の毒だなと思う話はいくつもあったけれど、私が助けられることがなかったのだ。
私が同情したところで、その人には何の救いにもならないだろう、と私は見るのをやめた。
少しだけ、神さまに祈った。
それが身近な人でない限り、自分にはどうにもできない話だ。
神さまに祈るだけ祈って、あとは、自分の仕事のことを考えた方がいいだろうと思った。


それから、次に注目したのは、街並みだった。
私が住んでいるのは、感染者数が日本で3番目に多い地域だ。

しかし目にする街並みは、いつもよりむしろ和やかなムードだった。

学校が休みで家にいられなくなった子供が遊んでいる。
親子連れの散歩も多い。
人がゆっくりした動きをしている。
日向ぼっこをしている人がいる。
外は人が密集していなければ大丈夫だということになっているので、家の前にある遊歩道は、むしろいつもより人が多かった。

まるで自分が子供の頃に存在した景色と時間の流れが戻ってきたかのようだった。

しばらく店頭になかったトイレットペーパーも、もう普通に売られている。

今日、住んでいるマンションの前で、高校生の女の子が卒業証書と赤いカーネーションを持って、お母さんに写真を撮ってもらっていた。
私は、「おめでとうございます」と声をかけた。
お母さんと女の子は「ありがとうございます」と本当に嬉しそうに返事をした。
「卒業式、できたんですね?」と私がいうと、「そうなんです」とお母さんは本当に嬉しそうだった。
女の子はにっこり笑った。


そうしている間に、 私は不思議な気分になってきた。

そして、もう一度、ニュースを見た。
テレビもつけてみた。


私は、また不思議な気分になった。

数字とニュース、それから町の雰囲気との乖離した感じは一体なんだろう?と思ったのだった。
自分の感覚ともニュースは乖離している。

個人的に会話する人たちとの感覚とも、ニュースが乖離している。


一体、何が起こっているのだろう?と私は思った。
そして、この不思議な感覚は、今もまだ続いている。