思いつきと後片付け
私は、思いつきを頼りに人生を進めている。
長く考えこんでもあまりうまくいかない。
私は頭が良くないんだと思う。
長く考えるのは、思いついたことを形にしていく時だ。
これは時間がかかる。
そして、ここでは、他の人の力を必要とすることが多い。
人は、私を、直感が強いとか、勘がいいというが、親は私のそれを「思いつき」と呼び、私自身も、それが一番しっくり来る。
かっこよくカタカナにするなら、私の人生は、ほぼアドリブ。
私は、ルーティンや決まったルールをこなすには努力がいる。できるけど、ものすごく努力している。
思いつきには種類がある。
短い時間におでこが光るみたいな感覚になって、おお!となるもの。
これは体を動かす。
それから、言葉が勝手に口から流れで始めるもの。
これは、その時思いついたことを、あ!と本人が思う前に口が喋りだしているので、本人、止められない。
口が勝手にしゃべる。
もう一つは、文章で、スマホをかちゃかちゃ打つ時。
全ての記事がそうではないが、ブログもほとんどは、思いつきで一気に書く。
毎日、だいたい5〜10分。
移動中に書いていることが多い。
書いて知る自分のことは、とても多い。
ただ、最近は、思いつきの類でも、後から少しだけ文章に手を入れることが多い。
話したり、書いたりするのに、考えないとは妙だが、「考えてから話しなさい!」と、私は親からしょっちゅう注意されていて、今は、考えて話せるようになったので、口から出る前に考えることは、努力で身につけたものだろう。
最初のひとつを除いた2つは、へ〜!と自分も感想を抱きながら、言葉や文章に接していることが多い。
自分の中から出たものなのに、まるで初めて知ったみたいに感じるから、これが不思議だ。
そして、私は、そういう風に話したり、書いたりしたものについては、内容を覚えているのが難しい。
それらは、ただ、外に向けて出すだけのために、私の体の中というパイプをただ通り抜けていく水みたいに感じることがある。
何も残らない。
その思いつきは、私の内面には、へ〜!と一瞬感じる以外の何も起こさない。
昨日、これに、メロディが加わった。
時間はやはり5〜10分。
よくわからんが、口は言葉を、手はコードを押さえはじめて、私は歌を歌いはじめた。
手と口が同時に動いて、いわば、ブログを書きながら話すみたいなもんだ。
余裕はないから、一切、考えていない。
不思議なのは、ブログを書きながら話すのはできないのに、弾きながら歌うはできること。
これはいつも思う。
同じように、手と口を使うのに。
ともかくそのやってきたメロディ付きの思いつきに、私の技術がついていかず、間違えながら(なかったものに間違いがあるのが面白い。なんでもいいわけじゃない)、とちりながら、それでも、一回で、ひとつの曲ができた。
手直しは必要だ。
その感覚は、水ではなかった。
私の中を風が吹き抜けていったみたいで、とても心地よかった。
私は、それを録音していた。
録音しておいてよかった。
やはり、私は、後からは、それを思い出せなかったからだ。
私は、自分が歌ったものなのに、覚えなくちゃいけないなんて、変だと思ったが、その歌を気に入ったので、ちゃんとしようと思った。
ぐちゃぐちゃなコードもちゃんとして。
それは単なる循環コードだ。
体の中がパイプみたいになって、水や風が通り抜けていくのは気持ちいい。
けれど、大変なのはその後だ。
話したことには責任が伴う。
私がもしも、相手の幸せを願っていなければ、その思いつきは人を幸せにはしない。
また、相手が話したことに質問してきたら、私は、考えて答えなくてはいけない。
書いたことにも責任が伴う。
生まれたものを、本当に完成したり、形にしたりするためには、めんどくさい細かな作業を積み重ねる必要がある。
思いつきの光や水や風は、消えてしまうのだから、後はほったらかしだ。
私の人生は思いつきと、思いつきの後片付けで構成されている。
ほとんど、毎日、めんどくさいと感じながら、私は生きている。
めんどくさいことが、幸せ。