聖書とわたし。ヨハネのことは、ヨハネに聞こう。

これは、私、宿題と言う名のブログネタを提供してもらっていますね、もしかしてと、今朝気づく。

私にとっては公開筋トレなんで、ともかくブログは、書けばいいのです。
10年書いてれば、ボチボチ、人生ネタも尽きてきましたのでね。

なんだ。
もしかして、助けてくれたのか?
書くことないでしょ?って。

というわけで、本日は、ヨハネさんからご提供いただきましたネタを宿題とさせて頂きます。

......

日本名ヨハネ。英語読みならジョン。
ヨハネというとありがたい感じがするが、ジョンだと少し近い感じがする。

そんなヨハネの福音書。
ダイアログ(会話形式)の部分が他の福音書より多く、ジーザスが喋っている言葉がたくさん載っている。
ジーザスは、メタファー使い。
お話しが上手だ。

ヨハネは、ギリシャ語で福音書を書いた。
日本語だとちょっとわかりにくいが、いきなり、哲学用語から福音書ははじまる。
しかも、哲学によってやや異なる概念を持つ単語からはじまる。


それは、ヨハネが、ギリシャ人に寄り添い、ギリシャ人にわかりやすいように話をはじめたと習って、なるほどとなったが、私は、いきなり、その英語、日本語訳両方にひっかかった。

なぜ、こう訳したのだろう?
そう訳した根拠はなんだろう?
フレーズは美しいけれど、どう訳すかで、これはかなり意味が変わるけどなと私は思った。

その言葉は、ギリシャ語と日本語は同じ単語であるのに、なぜ、多様な意味を持つその言葉から、ひとつの意味だけを取ったんだろう?
謎だと思った。

気になったので、ギリシャ語にまで手を伸ばした。

それから調べて、結果、私の疑問は、数百年に渡り、多くの神学者や翻訳者の人が考え続けていることだとわかった。
その単語をどう訳すかの議論をまとめるだけで、本が何冊も書けるくらい、考え倒されてきたのだとわかった。

ジーザスやヨハネが生きた時代に流行っていた哲学はこれか?どれか?というところから。
世界でそれは研究され続けてきたのだという。


こりゃ、わからんと、私は調査を諦めた。

私には、他にやることがいっぱいある。
ヨハネのことばかり考えているわけにはいかない。

ヨハネがどうしてこう書いたのか、ヨハネのことはヨハネに聞かなきゃわかんないわ。
残念ながら、もう亡くなっているから、永遠のミステリーねと、私は納得した。

その時の自分の状況で、感じることも変わるかもしれない。
新しい資料が発掘されれば、意味が変わることもあるかもしれない。
まあ、古い書物に交わるとはそういうもんだろうと思った。

それでも、ミステリーを、こうかな?いや、こうか?と考えてみるのは楽しい。

死んでヨハネに会うことがあったら、で、結局、どういう意味だったの?と聞いてみよう。
遥か昔に書いたものを、ヨハネが覚えていたならばだが。


私は、学者になれないタイプだ。


ヨハネのことはヨハネに聞け。
死んじゃってるから、死んだ後に聞いてみよ。

ヨハネさんは福音書のこと、覚えてるかな?
忘れちゃったかもしれないね、すごく前に書いたものだから。
そしたら、本当に永遠のミステリーだねとか、考えたりする。

それは楽しい。


ヨハネさんの使った単語を通して、私にとって楽しい聖書の読み方は、あまり、深く考えないことだなと私は学んだ。
私は理解を諦めた。
せめてイスラエルに行かないと無理だ、でも、私は、ヘブライ語もギリシャ語も読めないと思ったのだ。
英語で手一杯だ。

そして、それからは、ジーザスと一緒に旅をする情景を想像しながら読むことにした。
すると、ものすごくワクワクして楽しかった。

とりあえず、きっと歩きすぎて足が痛かったねというのが、私の主たる感想だ。
ジーザス一行は、実によく歩いている。


私は、ジーザスのすることや話を、そりゃないわ、とか、まじで?、それどういう意味ですかね?とか、突っ込んでみたり、想像すると面白いシーンをゲラゲラ笑いながら読んだり、いい話やとしみじみしながら読んだりする。


同じ教会の人たちには、こんなに楽しそうに聖書を読む人は初めて見たと笑われている。