両面。どっちを見る?
最近、「未来」についての話題を見聞きすることが多い。
インターネット、動画メディア、新聞、日常会話。
今まで生きてきた中で、こんなに人々が、未来について気にしていた時代はなかったんじゃないかと時々思う。
生きたことのない時代を生きてるねえと思う。
未来の種類は多岐に渡る。
老後、自然環境、国家など、個人の人生から地球まで、その範囲も広い。
論調は真っ二つに分かれている。
未来に対して受動的な論調と、未来を作ろうとする能動的な論調。
未来についてのアウトカム(目標)を話しているか、未来の結果を予測しているかに分かれている。
アウトカムはアウトカムなので、そちらを眺めてみると、心には希望が湧く。
いまだ人類が体験したことのない素晴らしい時代が少し先に待っているような気がする。
結果予測は、私が見聞きしている限りでは、悲観的なものが多く、絶望感がそこには漂う。
諦めムードと、いかにサバイバルするかの不安感も流れる。
同じ時代を生きていて、同じ未来を眺めるのに、ここまで対照的なことになるのが興味深い。
どちらも、未来という時間が持つ側面なのだろう。
未来について、いかように捉えているか個人の価値観の集合体が世論だろうから、未来との関わり方は、受動的、能動的のどちらもが同じくらいあるんだなあと感じたりする。
個人レベルの話にまで落とし込むならば、未来は、そこにどんな時代が来ようとも個人個人で違いが生まれる。
感じることは、もっと違いが生まれる。
宝の山の前で、きゃっほ〜!と感じるか、こんなのどうしようと迷惑に感じるか、いいことが起きると悪いことがあるんじゃないかと不安に感じるか。
それは、人それぞれだ。
宝の山の前に立っても、宝の山を見ない場合もあるかもしれない。
何を見るかは、個人の自由だ。
希望と絶望の両面を、未来は含んでいる。
どちらを眺めるかは、自由だ。
私個人は、絶望に弱いので、希望を眺めることにしている。
いまだ達成されたことのない難題の解決に、国際社会が手を伸ばしはじめていることを希望に感じる。
もしかしたら、不可能だと言われてきたことが達成される瞬間に生きていることができるんじゃないか?と、最近は少し感じはじめている。