遺伝子が伝えてきたもの
もしかしたら、これって遺伝子が古くから知ってる願いの叶え方なんじゃないか?
それから、私がこの世に誕生した後、一番最初に教わった願いの叶え方。
今朝、ふとそう感じた。
神さま、についてだ。
これは、ジーザスに限定しない。
私は、ジーザス(厳密には、ジーザスを通じて、ジーザスのお父さんにお願いしてるわけだが、直接自分がお願いしてるのはジーザス。これ、ややこしいから説明またそのうち)にお願いしてるわけだが、神さま自体は、人生の初期からそこにいる。
ただ、神さま、として、そこにいた。
名前は、神さま。
それ以外の名前はない。
私の人生の中には、三歳くらいから、神さまは普通にいた。
私は祖父母と接する機会が多かった。
祖父母はお寺にしょっちゅう行った。
私は、特に、父方の祖父と外出する機会が多かったのだが、祖父は、私を神社仏閣に引きずりまわした。
そして、手を合わせなさいと言った。
ただし、個人的なことはお願いしても意味がないと習った。
祖父は何度もこう言った。
「神さんは、いっつも守ってくれてるさかいな、ありがとう言うんやで。手を合わせて、ありがとう言うてごらん。
ほんでな、みんなが幸せですように、みんなが健康ですようにってお願いしとき。
神さんにお願いしていいのは、みんなのことや。
あんたのことは、神さんはいっつも見てる。勝手にやってくれはるからな。いつもありがとう言うとったら、それでいいんやで。」
私は祖父が大好きだった。
だから、祖父の言うことは何でも信じた。
祖父が言うから、神さまのことも信じた。
神社仏閣めぐりは、幼児には退屈極まりなかったが、お参りした後、お寺の縁日や出店でりんご飴が買ってもらえるのがうれしかった。
(神さまと甘いものは大体セット。今もそう。礼拝が終わったら、お菓子がある。)
それが四、五歳の頃の話だ。
私の両親は、なんというか現実的な人たちで、初詣や厄除くらいは行くが、神さまとかはあまり気にしない。
父に至っては無神論者だ。(でも初詣には行く。ジャパニーズ無神論者。)
母は一般的な日本的な宗教感を持つ感じがする。
私は彼らから、人生は自分の手で作るものだ、自分で考えなさい、自分の人生には自分で責任を持ちなさいと、徹底的に叩きこまれている。
(それは、今の時代の考え方に近く、私は時代が進めば進むほど、生きるのが楽になってきているので、感謝している。)
私が、両親から叩きこまれているのは、願うことそのものだ。
「あなたのことを考えるのは、あなた自身ですよ。
何が欲しいの?
何がしたいの?
誰も考えてはくれませんよ。
自分で考えなさいよ。
自分で決めなさいよ。」
それが、彼らが教えたことだ。
私はここまで、思考を使って、日常の中で願いを叶えていく方法を研究してきた。
モルモットは自分だ。
何度も書いてるが、私は自分の人生を使って実験している。
なんでもやってみるのが好きなんだと思う。
そして、人生最後のパートと自分が感じるところに来た時、私は「神さま」と手を組んだ。
今、教会の礼拝の中で、子供たちがお勉強している時間があるが、そこで子供たちが学んでいることの中で、神さまってこういう存在なんだよという部分は、祖父が私に語ったことと、あまり大差ない。
神さまの性質は随分違うけれど、神さまという存在との関わり方には大差ない。
ただ、ジーザスが少し違うのは、「積極的にどんどん願え」というところだ。
私は、礼拝にいきはじめた最初、すごく不思議な感じがしたことがある。
主の祈りという、礼拝の最後にする決まったお祈りの中にあるいくつかについてだ。
へ〜、これ、わざわざ言わないといけないんだと、私は思った。
神さまがこれしてくれるのは、当たり前だから、ありがとうって言っとけばいいと思ってたと私は思った。
例えば「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という箇所。
不思議だ、なぜ、わざわざ?と私は思った。
それから、ああ、我「ら」かと気がついた。
それに、これは古くからある祈りだろう。
昔は当たり前じゃなかったから、まず、今日のご飯が最重要なお願いだったんだなと思った。
そして、今も、残念ながらまだ、それが最重要なお願いの場所がたくさんあるから、それでまだ変わってないんだなと思った。
神さまも、早く、我らに日用の糧を与えてくれていることを感謝しますって、世界中からお礼が聞きたいだろうねと思った。
随分、長いこと、これ聞かされてるよね?
もうちょっと待ってね。
今、やってる人がいっぱいいるわ。
きっともうすぐ、我らの祈りの中身はそこは感謝だけに変わる。
私はそう思った。
そして、それから、あ〜、キリスト教は、願いを言語化することに特化してあるなと感じた。
毎日、祈れって、ようするに、毎日、願いを探せということで、それはつまり、希望を抱いて生きなさいよということだ。
願いや望みは、未来を諦めたら浮かばないので。
死後にさえも希望が抱ける(これは大体どの宗教もそうだが)ようにしてくれている。
クリスチャンにとっては、死は祝福だ。
まあ、私は、とりあえず死は今のとこ興味ない。
死んでから考える。
もう一回お願いしてあるから、後は死んだ後にしかできない。
今、私にできることは別のこと。
私は、祖父が私に教えたこと、両親が私に教えたこと、遺伝子の中に入ってるもの、それをひっくるめて、最終的に、神さまに託すという、しかも自分に馴染みのある神社仏閣ではなく、ジーザスに託すという選択をしたのだな、と思った。
つまり、私は、遺伝子をリソースとして使うことに決めたのだろう。
自分の存在そのものを。
ジーザスは、自分で祈れ、つまり、自分で望めと言うから。
それから、与えられるのを待つだけじゃない、やれ、と言うから。
それは、両親が私に教えたことだ。
そして、どんな人でも、信じれば可能だ、諦めるなと伝えているから。
自分が体と頭の両方で覚えたことをまとめるとこうなった、と。
祈るは、私の遺伝子の中に組み込まれた願いの叶え方だと気がついた。
これに気がついた後、私の胸は、ポカポカした。
そして、私は、なぜ、ジーザスは標準語で、ファーザー(ジーザスのお父さん)は大阪弁な気がするのかに気がついた。
その気づきは、神さまが私にしてくれたスペシャルプレゼントのような気がしたが、これは長いから、また別のはなしで。