お菓子とお金
人生最後のパート。
私の最後の夢。
それは、黄色いバスだ。
願いを叶える方法の、ありとあらゆるバリエーションを使う、方法は選ばないと決めている。
そして、私は、プロセスに愛の奇跡を採用した。
この場合、それが一番確実だ。
私はそう思った。
自分より能力があり、願いを叶えるスペシャリストに、私の願いを託してみようと思った。
そして、私は、それをしてくれるという存在と自分がした約束を果たすための宿題を、毎日、こなしはじめた。
存在にもいろいろな種類があるが、数千年に渡る過去のデータから見るに、私が約束したこの存在は、約束を守るかどうかを、割と重要視する。
その昔は、むちゃくちゃ厳しかったが、途中で、ジーザスが人間にも可能な程度にしてやっておくれと、割って入ってくれて、人間がしやすいお約束に変えてくれたということも書いてある。
ご親切に、成功パターンと失敗パターンは、書物にまとめられているので、誰でも過去データは参照できる。
私がした約束により、私は、宿題を必ず毎日する必要がある。
毎日、あ〜、幸せ!あなたのおかげよ、ありがとう!と感じ続けろという宿題だ。
ようは、幸せでい続ける努力を怠るなということ。
努力以外、なにもんでもない。
生み出し続けなければならない。
それがここまで。
話は続く。
今朝、起きてすぐ。
「プレゼントしてもらいなはれ。」
天から声なき声が聞こえた気がした。
なんか、大阪弁。
「だから、お菓子って教えてあげてんのに!」
ユカリちゃん5歳がイキって言う声も聞こえた気がした。
そして、最近起きた2つの出来事が頭に浮かんだ。
私は、頼まずして「お菓子」を人からもらっている頻度が多い。
期待しないプレゼントされることが、割とある。
道を歩けば、知らない大人から飴やらイチゴやらもらい、バスに乗れば回数券を誰かがくれ、バスにタダ乗りまでしていたユカリちゃん5歳には負けるが、今でもそれはある。
ユカリちゃん5歳は、大人からよく話しかけられて、めんどくさいなと思いつつも、少しお話し相手をした。
ユカリちゃんは良い子ではなかったので、話を聞いてあげようなどとは考えなかった。
めんどくさ、と、いつも思っていた。
しかし、すると、いろいろもらえたのだ。
(だから、母は、いつか私がさらわれてしまうのではないかと心配していた。)
それは前からある。
しかし。新しいパターンが発生していた。
自分から、支払いをお菓子でくれと私は先週、要求していた。
私は、最近、すでに引き受けていた仕事に手をつけた後に、これは追加請求をもらわないといけないなと気がついた。
ようは、私の読みが甘くて、出した見積もりが間違えていたのだ。
クライアントに追加請求をしていいか確認しようと思った時、「お菓子!」と頭に浮かんだ。
それで私は、「追加請求で、美味しいチョコレートかチョコレートクッキーをご請求しても、差し支えはありませんか?ご検討頂ければ幸いです」とメールした。
真面目に。
クライアントからは、「よいブツを用意しておきます」と返事が来た。
それから。
私は昨日、ある人から、私がした仕事への感謝を形にしてくれた物を見た。
目の前に広がったそれを見て、うわあ!と思った。
それは以前、夫に、「もう少し、こうならいいのに」と話したことだった。
夫は「君がやればいいゃないか」と言った。
ある人は、そのことは知らなかった。
私は話していない。
私は、夫にしか、それは話していない。
それなのに、その人は、そうしてくれた。
それはお菓子ではないが、お菓子的なものだ。
無くても差し支えないが、あると幸せなもの。
喜びが生まれるもの。
みんなで、分けられるもの。
うわあ!となり、幸せな気分で眠って、そして、目が覚めた。
私は、なるほど、やり方を教えてきていたのかと思った。
お金とお菓子、どちらも手に入れる方法を。
私は、仕事で手に入るお金より、それに付随してついてくるお菓子の方が大きいということに気づけということ。
考えてみれば、そんな気もする。
黄色いバスのプロジェクトは、お金ではない、「お菓子」なのである。
それを理解しろ、と。
確かに、バス本体は、バスの状態で、必要になれば手に入ることは、すでに知っている。
「お菓子」をくれる人と出会うために、やること、それが、すでにやろうとしていることだ。
「お菓子」が意味することは、愛と喜び、楽しさ、感謝、希望、そういうものを形にしたものなのか?
なるほど。
まだ、何かわかりそうだが、はっきりわかったことは。
私が、まだ、出会っていない人がいる。
その人と出会うために、必要なものがある。
そういうこと。