どうしてクリスチャンになったんですか?
さて、宿題をしよう。
猫の日なので、猫が絡む話だ。
どうしてクリスチャンに?と、よく質問される。
私の答えは、毎回、違う。
聞かれる理由は、世の人が持つ信仰心がある人と、私のイメージが乖離しているのも理由かと思われる。
何か信仰する人は、イメージ的に真面目な感じがしますもんね。
私ののりの軽さとは、イメージが合わないのかもね。
理由はいくつもあるので、私は、その中からどれかひとつ、聞いた人が楽しめそうなものを言う。
絶対に言わないのは、神さまがすごいとか素晴らしいから、だ。
これほど相手が聞いていて、工夫のないつまらない説明はなかろう。
そして、すごくない神さまはおらん。
すごいから、神さまなのであり、すごくない神さまは、神さまを辞めた方がいいと思う。
当たり前の話は聞いてもつまらない。
実際、私は、二十代の頃、いろんな宗教から勧誘を受けたが(勧誘が必要な時点で、もうどうかと思っちゃうが)、私を勧誘した人たちが、「すごい」とか「信じれば救われる」とか言うたびに、心が冷めたからだ。
つまりは、すごいだけの話はつまんなかった。
どうすごいのかさっぱりわからなかった。
体験談はせめている。
私はまだ、たった一年しか経っていないけれど、体験談がゴロゴロ集まっているから、多分、普通に過ごしていれば、山のように集まるという感じがする。
いろいろ起きる。
楽しい。
幸せな話や誰かが救われた話は、人の心を温める。
ちょっとやってみた期間でも、それは感じる。
つまりは、自己開示することで、体験を分かち合うことで、温もりや喜びや、希望や、幸せな気持ちを、ひとりじめしないで、他人に分かち合いなさいよということなんじゃないかと、最近、私は宿題を通して感じている。
心を開きなさいよ、自己開示がどこまでできるか?といい話かと思われる。
それは、願いや望みを叶える時にも必要なので、理には叶っている。
それで、キリスト教がちょっと他と違う感じがするのは、あかし(普通にいえば、宣伝広報)、という仕組みを通して、この自己開示をどんどんしなさいねと言っているところ。
祈るだけの内省型の信仰ではない。
実践型の信仰だ。
新約聖書を読むに、なにしろ、神さま本人が、わざわざ人間に生まれてきて、あっちゃこっちゃ歩き回っちゃ、話し回っちゃ、人を癒しちゃ、奇跡を起こしちゃ、なんだかんだしている。
自分が、そこへ、自ら、歩いていっている。
人が来るのを待ってはいない。
まだ私にとってキリストがキリストで、ジーザスではなく、私にとって神さまではなかった頃から、私は、彼の人間としてのそこは評価していた。
彼の行動力。
そこは好きだった。
私が引っかかり続けたのは、一神教の国が、聖書を手に、神の名のもとに、戦争を続けてきたことだ。
その歴史に、私は引っかかり続けた。
キリスト教というよりは、まあ、全ての宗教に対してだ。
特に一神教。
自分にとって唯一絶対であればそれでいいではないかと、私個人は考えるが、全員にとって唯一絶対だ!と、その押し付け合いが生む争いを、私は好まない。
日本は、宗教で戦争はしないが、心の中にそれを抱く人は、実際にいる。
私は、それらの人と関わりたくなかった。
争いは嫌いだし、心が狭い人のそばにいるとしんどい。
寛容と平和を説く宗教でそれが起きることは、とても不思議だったが、それはそこに事実として存在した。
そして、神さまに感謝はするが、人には感謝しないという、わけのわからない状態を垣間見たこともあって、私は、長く考えた。
それがなければ、私は、もっと早く、クリスチャンになっていたのではないかと思う。
私が、動きだす最初のきっかけを作ったのは、猫だ。