どうしてクリスチャンになったんですか?(7)

洗礼式の当日は、よく晴れていた。

友達夫婦が2組と前に同じクワイアにいた知人が1人、それから同じ教会の人達が集まってくれて、牧師さんもやってきて、そして、洗礼式ははじまった。

最初に、He has made me glad(彼は私を喜ばせる。邦題は、心に感謝を持ちながら。私は、英題の方がイメージにあう)というゴスペルを歌った。
のりのりなスタートだ。

その後、最後の確認で、牧師さんが、私にいくつか質問した。
全部にYesでなければ、洗礼してもらえない。

何を質問されるかは、お勉強会で教えてもらっていた。
一問だけ、私が引っかかった質問があった。
それは、「悪魔と戦うか?」という質問だ。

私は、戦いを好まない。
それで私は「この悪魔はどこにいますか?」と質問した。
牧師さんは「自分の中です」と答えたので、私は、それならいいです、と言った。
ヨコシマのことだなと思ったからだ。
(ヨコシマは、時々、ブログに書いている。今はもう、ヨコシマは悪さをしない。)


質問に、はい、はい、と答え、そして、私と牧師さんは、儀式のためにお風呂場に移動した。
周りの人も、ゾロゾロ来た。

「お風呂に正座して、私が頭をポンと叩いたら、前に倒れて頭まで水に入ってくださいね」と牧師さんが言った。

私は、お湯に足を入れた。
そして、いい湯だなだ!と思った。

お湯は38度ではなかった。
熱くはないが、いい湯だった。

私は、笑いをこらえるのに必死だった。

あ〜いい湯だ、あ〜気持ちいいと思いながら、私は湯船の中で正座した。

ほどなく牧師さんが、私の後頭部をポンと叩いたので、私は頭をお湯の中につっこんだ。

お湯の中、私はすぐに気がついた。

ねえ、頭はいつ上げるの?


それは、習わなかった。
私は考えた。

洗礼は一度死んで生まれ変わるみたいなもんだという。ならば、死にかけるまで我慢すべきなのか、どうなのか?


同じ時、浴槽の周りはざわつき、牧師さんは不安になったらしい。
私がいつまでも上がってこなかったからだ。

これは溺れてる?助けた方がいいのか?と牧師さんが思ったらしい頃、息が続かなくなった私が、じゃばっ!と頭を上げた。


私のお腹の中から、バカバカしさのあまり、笑いがこみ上げた。

「笑いが止まらない!」と言って、私は、お腹の底から笑い、周りも爆笑していた。


笑いが止まらない。

それが、私のクリスチャン第一声だ。


ああ、おかしい、と私は思った。


その日の終わり、みなは口々に、こんな楽しい洗礼式ははじめてだとか、面白かったとか言って帰っていった。


そうやって、私はクリスチャンになった。


その日、家に帰った後、私は、教会の代表の友人にSNSのDMを送った。

「神さまが私にして欲しいこと、いわば、私のクリスチャンとしての使命が私にはわかった」と、私は書いた。

「はい。僕にもわかりますよ。笑いの賜物(たまもの。神さまからもらったもの)ですね」と返事が来た。


私は、なんだ、何にも変わらないじゃないかと思った。
それから、そうか、これからはジーザスも私と一緒に人を笑わせてくれるのかと思った。

私は、あなたのために働くと約束してクリスチャンになった。
そのためにクリスチャンになった。

ジーザスが私に望むことは、笑いに満ちた人生をだと思った。
なんだ、今までと何にも変わらない。


私はそう思い、後日、長きに渡る友人にそう報告した。
「あのねえ、何にも変わらなかったよ。笑ってればいいねん。」

友人は、呆れたように笑った。


この後、ジーザスは人を笑わせるためにミラクルを連発し、私の周りは、祈りが生んだ笑いに満ちていく。
今のところ、私の祈りは、笑いを生むが感動は生まない。

でも、それについては、また別のはなし。