親指姫の身長は何センチ?
空想少女が大人になると、世の人の評価は、発想力がある人という言い方に変わる。
中身は空想少女がやっていたことと、一ミリたりとも変わっていない。
変わったことは、周囲が大人になってしまい、持っていた空想力を、常識やルールに譲ってしまった人が増えただけだ。
けれど、イメージ、ビジョンという社会的に許された名前で、空想たちは生き残った。
けれど、イメージとビジョンが形になりやすい人となりにくい人がいる。
私のイメージ、ビジョン、空想は、クオリティはどうあれ、形になることが多い。
私は、何が違うのかを観察し続けて、それで気がついた。
空想をひとりだけで楽しむ時、それは空想という名前で現実を動かさない。
自分ひとりだけの人生に関わることも。
空想を誰かの役に立つように、誰かにわかる言葉で分かち合う時、それは発想という名前に変わり、現実を作る力を持ちはじめる。
いかに、その空想を人も一緒に楽しめ体験できるものへ、それが叶うと自分だけではなく誰かも幸せを感じられるものへとできるかは、大きなポイントの気がする。
幼い私にできた空想の分け方は、新しい遊びを友達と一緒に試すことくらいだった。
そして、結局、今やっていることもあんまり変わらないような気がする。
思いついたことが1人ではできないことならば、人にできるだけ早い段階で分けることは、本当に大切みたいだ。
空想、イメージ、ビジョン、願い、名前はなんでもいいけれど、
それは、勝手に、空から降ってくる。
すぐに消えてしまうから、上手にキャッチして、正しい場所におければ言葉にまではなる。
キャッチ力が必要だ。
(人によっては、ここで、手助けが必要な人もいるだろう。)
思いつきやひらめきとゲームのテトリスは似ている。
ぷよぷよでもいい。
古くはインベーダーでもいい。
あの喫茶店にあったゲーム。
日曜日の朝、祖父母とモーニングを食べに行った後にするインベーダーが、私は大好きだった。
話がそれた。
このように話がそれずに、ちゃんと降ってくるものをキャッチするところまでは、ひとりでいれば、割とできる。
誰かに話しながらだと、ウケを狙いはじめて、話がそれる。
その後、その思いつきを表現するものが、言葉だけでなかった時、私は他人の力を必要とする。
私がこれに早くから気づいていたことは、本当にラッキーだった。
自分のできることや強みを把握するのと同じように、自分にできないことや弱みを把握していることは重要だ。
なぜなら、それは、他人の力を借りるしかないところだからだ。
私は小さな頃からできないことが沢山あり、なおかつ、親が、できないことに手を貸さなかったことに、私は感謝している。
なんで助けてくれないんだと、子供の私は不満たらたらだったが、親が助けてくれなかったので、私は、早くから、人に助けてもらうための練習ができたからだ。
なんでもいきなりできるものではない。
私が他人の力を必要とするのは、特に思いついたことを物質化する時だ。
現実的な人、数字に強い人、ビジュアルに強い人、行動力のある人、必要な人の種類は時により変わる。
だから、人のいいところは、よく見て把握しておく必要がある。
悪いところを探すのは自分の役に立たないので、時間の無駄だと、私は考えている。
私は、ドライな空想少女が大人になったバージョンだ。
それに、いい人と一緒にいる方が楽しいから、自分の機嫌が悪くなければ、だいたい、周りにはいい人ばかりがいる。
(いいところしか見なければ、この世は全員、いい人だ。自分の機嫌が悪い日には、悪い人や嫌なやつが現れる。)
だいたいの場合、私は、すでにそれができる人が側にいることが多く、あの人に言えばいいというところまではわかる。
わからなくても、そのうち、たまたまその人に会うことになるから心配はいらない。
誰かわからない時は、周りに言いふらしておけば、そのうち、忘れた頃に、誰かが「あの人ができるよ」と教えてくれる。
人は、間に6人挟めば、世界中の誰にでも会うことができるらしい。
要は、繋いでくれる人がいるかどうかだけだ。
今は、SNSのDMとかもあるから、もっと簡単かもしれない。
私は古式ゆかしいアナログなやり方で、人と繋がっていく方が好きだけれど。
これには時間はかかるけど、出会う楽しさがそこにある。
多くの場合、私が物質化したいものは、あってもなくても誰も困らない無駄なものなので、私は古式ゆかしくやる。
無駄なもの、無駄なこと、そして出会いは楽しい。
それで、話は、昔、私が、ガラスのデザインをしようとしていた時のこと。
それは披露宴の演出で使うもので、今も、ひとつだけ、私がデザインしたものが、多分、日本のどこかの披露宴で使われている。
それで、私は、その時「親指姫が乗っていた葉っぱ」をガラスで作りたいと思った。
そして、それを、当時の相方さんに話した。
ガラス職人さんとの話は、相方さんがしてくれていた。
私の話は、ば〜っ、とか、うわ〜っ、とかのジェスチャーつきの擬音の説明が多いから、職人さんは多分理解できない、職人さんには設計図が必要ということで、その設計図は彼が書いてくれていた。
話を聞いて、彼はすぐに言った。
「親指姫の身長は何センチですか?」
私はケタケタ笑った。
彼はまじめに、「親指姫の背の高さがわからないと、葉っぱの大きさが計算できないから、わかりませんよ」と言った。
私はまだケタケタ笑いながら、う〜ん、10センチくらいかなあ、と私は言った。
「結構、背が高いですね」と彼は言った。
じゃあ、5センチくらいかなあ、と私は言った。
そして、私は、その葉っぱから水が滴り落ちたらかわいくないですか?と言った。
彼は「どんな形の葉っぱなんですか?」とまた聞いた。
私はこんな感じのと、手でそれを説明した。
結局、親指姫の葉っぱから水が滴り落ちたら、新婦のドレスが汚れてしまうので、それは商品にはならなかった。
思いつきには失敗がたくさんある。
物質化できるのは、ほんの一握りだ。
それは形にならなかったけれど、今も、たまに「親指姫の身長は何センチですか?」というフレーズを思い出すと、私は楽しい気持ちになって、笑ってしまう。
空想からはじまることは。うまくいってもいかなくても、楽しい。