どうしてクリスチャンになったんですか?(5)
礼拝に参加しはじめて、2ヵ月経った頃、教会の代表の友人(ゴスペルの先生)が、「そろそろ、洗礼準備をはじめましょうか?」と言った。
ちなみに、私は「洗礼してください」と言って、そこに通い始めた。
これは、珍しいケースなのだそうだ。
普通は、まず、礼拝に通い始め、それから時間をかけて、洗礼を受けるかどうか考えることが多いらしい。
私は、見た夢が理由で、洗礼をしてもらうことにしたので、考える必要はなかった。
むしろ、洗礼してもらわなきゃ、意味がなかった。
(だからこそ、喧嘩にならない牧師さんを求めたのであり。)
それに、もうすでに、長い時間、考えた後で、決めていたから迷いはなかった。
もし、これはあかん、間違った!と思えば、やめたらいいのだとも思った。
果てしなく、私ののりは軽い。
これは気質だから、信じる信じないとは別の話で、死ぬまで変わらないことだろう。
何事もやってみなければ、わからない。
それで、洗礼のためのお勉強会を、教会に何かと協力してくれていた別の教会の牧師さんがしてくれることになった。
お勉強会は、とても楽しかった。
私の心配は全く無駄だった。
私が、ある聖書の箇所について、「これはおかしい、やらかしっぱなしで後始末をしていない。これは、ただジーザスの機嫌が悪かっただけではないのか?」と質問したら、牧師さんは楽しそうに笑った。
そして言った。
「そこは使徒信条には書いてませんね?使徒信条に書いてあること以外は、解釈の多様性です。どう解釈しても構いませんよ。」
私は「じゃあ、ここも?」と尋ねた。
牧師さんは、「はい、そこも。書いてないでしょう?使徒信条に。使徒信条に書いてあることを違うと言ったら、クリスチャンじゃなくなりますから、そこは理解してください。」と教えてくれた。
使徒信条とは、ジーザスはマリアからら生まれたよ!とか、十字架にかけられて、それから復活したよ!とか、いわば、ジーザスの人生の重要シーンダイジェストみたいなもの。
私はそれを信じるよ!と言うこと。
もちろん、もうちょっと堅苦しい文体で書いてある。
理解はできなくても信じればいいので、私は素直にそれを信じることにした。
昔々に起きたことは、自分の人生ですら、事実かどうか、ほとんどは怪しい。
事実かどうかは、もはやどうでもいい。
信じたならば、それは、自分にとっては真実になる。
私は、その聖書ダイジェストに書かれたことを信じることにした。
それは、私の人生に、害はないことばかりだったし、大したことではなかった。
洗礼のお勉強会で、私の頭の中の自由は奪われなかったし、私の考えは、否定されなかった。
むしろ、私の頭は、もっと自由に楽しんで神さまと関わろうとしはじめた。
牧師さんは、絶えずニコニコしていた。
この人は、ジーザスがとても好きなんだなと、私は感じた。
そして、お勉強会は終わり、さて、洗礼式の日取りを決めようとなった。