理由
私が、がんとして、いい人やできた人、すごい人になろうとしないのには理由がある。
ヨコシマを放置しているのも、下心全開でいるのも理由がある。
欲の力を使うにも理由がある。
ジーザスは、全部、分けろというから、全部、分ける。
私は、人間の言うことには反抗することも多々あるが、ジーザスの言うことは聞いてる気がする。
だって、ジーザスは素晴らしいから!
よし!書いた!
(ジーザス、呆れて、笑ってんじゃないか?子供が宿題をやるみたいなのりに。まあ、ええわ。私は幼稚園レベル。)
さて、続けよう。
ここね、結構、実験のポイントでございましたのよ。
実験をはじめた当時、私は、すでにセッションをしていた。
当時も今も、訪れる人達の中で、なかなか進まない人には共通していることがあった。
セッションだけではない。
私が、勉強しにいくワークショップで出会う人にも、共通していることがあった。
私は、仕事のスキルアップがいつも目的だったが、ワークショップで出会う人に、いないわけではなかったが、そういう人は少なかった。
最初の私のように、自身のために学んでいる人が多かった。
(学んで問題を解決しようとする、これは、日本人の特徴らしい。)
クリスチャンにさえも同じことを感じることがあった。
こちらは、お祈りという、ずるっこが使えるから、さらに思った。
ジーザスはこんなにお願いごとを聞いてくれるのに、どうして、それは楽にならないのかしら?
お祈りで解決すると教えてくれているのに、望みを叶えるのが大好きなのに、どうして、ジーザスの好きなことをさせてあげないのかしら?
ジーザスは、時さえ整えば、早いのが好きなのに(だって、そう書いてあるもん。だいたい、すぐ治る)、どうしてどう考えても、いつ解決しても構わなさそうなそのお願いは、時間がかかっているのかしら?
やれば終わりなのに、なんで、やらないのかしら?
共通していたのは、「やらない、動かない」だ。
ひたすら頭や心の中を見て、その中で、自分を成長させ、精神性を向上させ、「ついでに」願いを叶えたり、問題を解決しよう。
または、願いや問題を叶える「ついでに」自分も成長しよう。
自分が成長したいというのが願いや目的な場合はそれでいい。
ただ、願いや目的が別のものなのに、そこに、自己成長や精神性の向上を絡めた時、その願いや目的は叶う可能性がむちゃくちゃ下がる。
だいたい全てが自己成長で解決できるのは、幼稚園児の願いや悩みくらいまでの話だ。
幼稚園児が抱える問題は、大人になれば解決するものがほとんどだが、大人が抱える問題や願いは、成長や精神性の向上だけで解決したり、叶えられたりするほど、シンプルではないことが多い。
また、幼稚園児は使えなかった他の方法を大人は使える。
そして、幼稚園児は持たなかった、自分で選択し、自由に行動できる自由を、大人は持つ。
そして、なにより、幼稚園児が大人になるのに時間がかかるように、成長や精神性の向上には時間がかかる。
なおかつ、その人が成長したり、精神性が向上しても、それが他人に分かち合われないのであれば、自己の内面の自己満足で、それは終わる。
願いや内面が、自分の中だけに関わることなのであれば、それでいいのだろう。
しかし、私が出会った人たちは、そうではなかった。
自分だけ、自分の感じ方だけ、自分の心の中だけに問題を抱えていたり、それらだけに関わる願いや希望を抱いていたわけではなかった。
そして、ことごとく、自分が成長したり、精神性を向上させようとしていた。
私は思った。
プロセスが自己の成長、精神性の向上いっぽんやりで、手段が貧困なことが解決したり、願いが叶わなかったりする理由ではないか?
考え方に原因があるのではなく、動かないことが、叶わない理由じゃないか?
以降、私は、自分のセッションでは、宿題を出し始めた。
次回はあってもなくても構わないのだが、「これをやってきて」という宿題だ。
そして、私は実験を始める時に考えた。
そもそも、自分の人生を題材に使うだけで、自分のためにはじめたわけじゃない。
私は、十分、幸せだった。
私がはじめたのは、暇つぶしの研究だ。
私は考えた。
なぜだか、人は、すごい人やできた人、精神性の高い人、そういう人の願いが叶い、そういう人の悩みが解決し、そういう人が幸せになり、そういう人が周りを幸せにすると信じこむことが多いようだ。
そして、だから、自分には無理だという。
すごい人ではないから。
願いや問題と、精神性や成長は、必ずしも関係しないのに。
たとえば、床掃除は、心をこめようがこめまいが、手を動かせば部屋は片付く。
最近は、ロボットが掃除してくれたりもするから、スイッチを押せばいいだけのこともある。
業者を頼むこともできる。
しかし、正しい雑巾の使い方を見つけ出し、床を水拭きするのに必死な人がたくさんいるように、私には見えた。
しかも、隅っこをせっせと拭き続けているように見えた。
掃除機や、フローリングシートや、ロボットや、業者には見向きもせずに。
床全体は見ようとせずに。
隅っこだけ磨きあげられても、床はきれいには見えないから、そのうち、「はあ、全然きれいにならないわ」とか、「こんなに正しい雑巾の使い方で、せっせと床を磨いてるのに、ちっとも変わらないわ」とかいう気分になり、そして。
その人は、床から去る。
なんでもいいから、拭けばよかっただけなのに、自分でやる必要は必ずしもなかったのに、道具はたくさんあったのに、雑巾がけと隅っこの美しさにこだわったために。
そして、ロボットを使った人の床を見て、「ああ、私もロボットを使えば楽だったかも」と思ったりする。
しかし、その時には、床はもうない。
それは、拭きあがらなかった床として、記憶に残っているだけだ。
私は決めた。
私は、すごい人には絶対にならない。
ヨコシマなままで、やりとげよう。
自己中心的にいこう。
問題解決、願いの実現に、精神性の向上と自己成長を絡めて考えないやり方でいこう。
だから、私は選んだ。
私は引き寄せを使う。
願えばそれでいい、ビジョンを使えばそれでいい、そういう方法。
いい人にはならない。
私のままで、周りを幸せにする。
ヨコシマなままやる。
いったい、どれだけの人が、すごい人、できた人、精神性の高い人になれるというのだろう?
無理やろ、と、私は思った。
無理でいい、他のやり方があるということを、私は実験で証明したかった。
それは、日常にあったので、私がセッションで手伝うことはできなかった。
だから、私は書いた。
最初は、私のクライアントさんのために。
目の前にいた人たちのために。