自分で自分の機嫌を取る

自分で自分のご機嫌を伺い、自分で自分のご機嫌を取る。

私は、くそ、なんでや、とか、はあ?とか、ちょっとでも嫌な出来事や嫌な気分になったら、すかさず、自分のご機嫌を取る。

相手とどうにかしようとはしない。
ひとまずは。

それが、自分の心理や気分だけに作用することなら、相手に理解してもらおうとも思わない。
とりあえずは。

人は、私の心理や気分のためには生きていない。

どうにかする必要があるかどうかは、自分のご機嫌取りが終わった後に考える。
私の経験では、機嫌の悪い状態でする交渉がうまくいった試しはない。
こんがらがるか、しんどい感情が自分の中に広がるばかりだ。

私は、できた人ではないので、感情を押し殺すことはできない。

だから、先に、自分の感情をどうにかする。
それから、相手とのことは、考える。


人が不快になるようにふるまう人は、相手から不快な反応が欲しいわけで、相手が望むように、相手が期待する不快な反応を見せてあげる必要はない。
私は、この辺り、ドケチである。

私ひとりで、不快は独り占めする。

後からは、ネタに仕上げて笑いに変えることもあるが、それは、不快な感情を生み出すきっかけを作った人に語られることはまずない。

私は、不親切だ。
徹底的に、望むものを与えないというやり方をする。

私は何を考えているかわからず恐ろしいと言われることがたまにあるが、それは、自分が感じた不快感を直接伝えないことが多いからかもしれない。
加えて、表情には出ないから、余計、不気味なのかもしれない。
(これは単に、ずっと人と関わる仕事をしているから、感情と表情が必ずしもリンクしないように、職業的にトレーニングされてるだけだ。)

全く怒りや不機嫌さが顔に出ないわけでもないが、それは、完全にプライベートな場合で、なおかつ、相手との信頼関係に自信がある時に限定される。



なんで、私が、心が不快な時間を広げていく必要がある?
私の人生の中で、どういう風に、心の中の時間を使うかは、私の自由だ。

相手のことを考える時間があるなら、私は、私の機嫌を取る方に時間を使いたい。


前に、自分の人生でずるはしないと書いたが、最近は、ここをアウトソーシングしている時はある。
早いからだ。

依頼内容は、神さま、私の心に平和と温もりを与えてください。

以上。

あれこれ考えるより早い。
体感が戻れば、思考は体感に影響を受けて変化する。

私の頭と思考はそんなに賢くない。
だから、簡単に、体感に騙される。
体感から思考を生み出す方法を、私は、割とよく使う。
表情から気分を作るやり方も使うし、音楽で耳から気分を作る方法もよく使う。
私の思考は、騙され放題だ。


クリーンランゲージ&シンボリックモデリングで、メタファーの作り方を覚えてからはさらにそうだ。


まず、私は、何が起きればいいのか?を考える。
不快な時、不機嫌な時に、私が欲しいものは、平和と温もり。
なくなって欲しいものを考えるのではなく、欲しいものを考えるのはポイント。

だから、不快感がなくなりますように、ではなく、不快感がなくなった後に生まれるものを考えるのは、ポイントだ。
つまり、ニュートラルな状態、いい状態の自分を知っていることは大事だ。


そして、そこから、それを自分で膨らませる時間がもったいないので、最近は、時短で、自分より優秀なところにアウトソーシングする。

これは一般的ではないかもしれないから、真似するときは、それぞれ、信頼できるアウトソーシング先を探せばいい。
アウトソーシング先が、それを受けるなら受けてくれるだろう。
こんな簡単な仕事を受けてくれないアウトソーシング先がもしもあるなら、廃業してしまえと私は思う。


お代は無料。
必要なのは、先にお礼をいうことだけ。
やってくれたら、またお礼をいうだけ。
ただし、どのアウトソーシング先でも、アウトソーシング先は、心を読むから、小さな頃の私のように、口先だけのお礼はばれる。
口先だけのお礼は人間相手にしか効果がない。

それができれば、かかる時間は最短。


このような類のことは、私にとっては、時間をかける意味がない。
方法は、早ければなんでもいい。
こだわりがない。

私が時間を使いたいのは、その後だ。

今後の対策と現実的な対応だ。
この部分は、話が日常のことであれば、アウトソーシングができないから、いかに平和で温かい環境を作っていけるかは、私は知恵を働かせないといけない。

大きな話なら、また別のやり方があるが、日常の小さな話は、仕事、プライベート関わらず自分でやるしかない。
そして、人生は、その小さなことの積み重ねだ。


そして、そのために、まず、必要なのが、自分で自分の機嫌を取る作業だ。
これは、私ができた人でないために、必要とするワンアクション。


これを続けていた間に、私は、きっと、それすらめんどくさくなったのだろう。
日常、周りで、ほとんど、ちっ!とか、はあ?とかいうことが起きなくなった。

逆のことはよくある。
知らない人が助けてくれたり、なんだかんだ、心温まる出来事だ。

不快な出来事を経なくても、アウトカム(望み、願い)だけがそこに生まれる状態だ。
思考がクリーンな質問を覚えて、手順を勝手にやっているのだろう。


アウトソーシング先にも感謝することにしている。
言語化されない思考との間で、勝手に仕事を先にしてくれているかもしれないから。
人間でも、優秀な人が先回りすることはよくあるから、それくらいはやるだろう。

人間と同程度、または人間以下の仕事しかしないなら、廃業した方がいい。
しかし、生き残ってきたところを見ると、そうではないらしい。
私の選んだアウトソーシング先は、優秀だ。

一般的には、アウトソーシング先を選ぶことを、信じる、という。

信じる力は偉大。


どういうやり方でやるか、自分でやるかアウトソーシングするかは、個人の自由だが、大事なことは。


自分は自分の機嫌を取れると信じること。