仲間
ジーザスが私にくれたもののひとつは、新しい仲間だった。
私が「働く」と言ったからだろう。
働くには仲間が必要だ。
ジーザスは駆け引きをしない。
(それができるなら、十字架にはかからんですんだだろう。)
だから、別に私が何かしなくても、私の寿命を二十年、猫に分けてくれただろうし、猫を助けてくれただろう。
だからきっと、私が働きたがっているんだと思ったのだと思う。
あ、そう?
じゃあ、働いとく?
そんな感じの気がする。
もしくは、働かせるために、猫をネコ質にとったかだ。
めんどくさがりには、神さまは、それくらいやる。
私は知っている。
神さまというものは、私には、それくらいやる。
ジーザスは優しいが、彼の父さんは厳しいとこがある。
人間の感情とか、あんまり気にしない。
ちなみに、私が、小さい頃から感じてたのは、彼の父さんの方じゃないかと思う。
名前がない神さまは、彼の父さんくらいだから。
名前がないって、聖書に書いてあった。
後からいろいろ調べていたら、私のそれまでの神さま観は、ユダヤ教に近かった。
馴染みがあるのは神社仏閣だが、自分の中には、神さまはそもそもひとつしかなかった。
神社やお寺の神さま仏様は、私にとっては、仲良しのお友達だった。
これは今も変わらない。
私には、それらを否定したり、けなしたりすることはできない。
それは、私を慈しみ育んでくれたものだ。
そして、私に関わる多くの人が信じているものだ。
人が信じるものをけなす人は、パリサイ人と同じ気がする。
パリサイ人は、クリスチャンがいわれると嫌がる言葉。
私の辞書には、何か頭でっかちなことを言われたら「パリサイ人か!」と言うという、ツッコミ用語として登録されている。
タカトシの「欧米か!」とか、なんでやねん!みたいな感じ。
まだ、使ったことがない。
残念。
さて、ジーザスは、人間の経験があるから、人に優しい。
痛いとか、悲しいとか、嬉しいとか、よく知ってる。
ひとりじゃ働けないことも、よく知ってる。
ジーザスと彼の父さんは、キリスト教においてはひとつだが(ジーザスがそう言ったから。それで一神教ね)、親子と思えんくらい、あまりにも性格が違う気がするので、私はもう、ジーザスと話す。
これをね〜、お父さんに言っといて欲しい!と。
甘やかしてくれる方、楽な方と。
キリスト教のお祈りのシステムは、ジーザスを通す。
だって優しいからね!その方がね!
ジーザスは、私を追い詰めず、好きなことをさせる。
好きなことをして、人を喜ばせるように、話を持っていく。
だから、私は、ジーザスが好き。
多分、人間だった時、女性にもてたと思うよね。(個人の感想よ。)
モテたい男子にも、聖書はいいかもね。
というわけで、私には、新しい仲間とジーザスという仲間ができた。