どうしてクリスチャンになったんですか?(4)

最初、私が大変だったのは、礼拝がある毎週日曜日、朝10:30に、そこにいることだった。
仕事であれば起きれるが、私は朝は、起きてはいるが、動きが鈍い。

それで夫が、車で送ってくれた。
夫は送ってくれるだけでなく、朝、起こしてまでくれ、シャワーまで、私を引きずっていった。

そこまでしても、夫は、私を礼拝に行かせようとした。
「私がいないと家が静か、猫が自分に寄ってくる」というのがその理由。

「ジーザスはいい人だねえ。僕にまでよくしてくれて」と夫は言った。

何か、私を送り届けることに使命感を抱いているようにも見えた夫だ。
ちなみに、この人は、一般的な日本人の信仰観を持つ人だ。

私たちは、去年と今年、私が新年最初の礼拝に行く日に、彼は初詣に行った。
同じ日に、違う神さまに、祈った。
全く問題ない。

それで、私が地獄に落ちたり、救われていないと考えたり、夫が救われてないと考える人には、脳科学を勉強しろ、歴史を読めと、私はお伝えしたい。

この世の全ては、神が作りたもうたものであるならば、脳科学や心理学も、神が作りたもうたものだ。
それらと、神さまの存在は矛盾しない。
読み方によると思う。
割と同じことも書いてある。

なぜ、いろいろな神さまを信じる人がいるかは、そして、神さまはいないという人もいるのか、それらは、神が与えたもうた脳科学や心理学で説明がつく。
そして、人に、信仰を押し付けることが、どれだけ自分勝手で残酷な行為かが、わかる。
いいよ〜と話すことと、信仰を押し付けるのは別の話だ。


だいたい、見えないものの正解を、いったい誰が知っているのだろう?
昔はそれで、たくさんの人が亡くなっているが、心という見えないものが感じる、神さまという見えない存在について、人間が、他人のそれを、どうやれば測り知れるのだろう?

言葉の意味は、人によって違う。
同じ言葉を話す人が、自分と同じように理解しているとは限らない。
また、違うことを話す人が、自分と同じ感覚を持つことも普通にある。


そして、神さまについて、これが正解だと言い切れる人がいるなら、その人はもはや人間ではなく、神さまだ。


というように、私は、考えていたし、これは今も変わらないので、私は、洗礼のためのお勉強会がひじょ〜に!不安だった。
牧師さんによったら、洗礼してもらえない可能性が高い!と私は思っていた。

そこでアウト!やめた!という話は時折、聞いたことがあったからだ。

ジーザスのめえめえ子羊になるには、昔は、「付いておいで(Follow me)」というジーザスの声についていけばいいだけだったけれど、今は、違う。

大丈夫かね?と私は思ったが、それは無用な心配だった。