どうしてクリスチャンになったんですか?(3)
そして、またしばらく時間が流れた。
私は、まだ考えていた。
ここにも何度か書いているが、私の人生の中には、幼い頃から、ちょいちょい教会やら、聖書の中の言葉やら、クリスチャンの人やらが登場していた。
私の人生のピンチを、二回ほど、救ってくれてもいた。
十一歳から書かれたことを考え続けてきた本は、ある神父さんの話だし、私が十三歳から座右の銘にしてきたものは、聖書の中の言葉だった。
二十五歳の私を救ったのは、その人生を人の心を救うことに捧げたクリスチャンの人だ。
そして、今、また、大事な猫を救ってくれた。
それでも、私は、まだ考えていた。
納得がつかなかったからだ。
そこに、私を動かした二つ目の理由が登場した。
今度は非現実的な話だ。
私は夢を見た。
夢の中で、私は、マリア様に手を引かれて、川に行った。
川には、白い服を着た人がたくさんいて、その中のひとりが、私に川の水をかけてくれた。
目が覚めた私は、不思議な幸福感に包まれていた。
それで、私は思った。
もういいじゃないか。
私は私だ。
これまで、神さまに名前があるのが悪いと考えてきたけれど、もういいじゃないか。
自分の神さまに、名前があっても。
自分が、他者との違いを尊重できればそれでいいじゃないか。
私が信じるものと、あなたが信じるものが違っても、仲良く生きていけるということを、自分はやればいいじゃないか。
他人を見るな。
神さまを見てみよう。
実に何度も助けてくれたじゃないか。
何度も、ピンチを救ってもらってきたじゃないか。
自分を信じろと押し付けることもせず、(チラチラ自分だよとアピールはしていたけれども。笑)、ただ、助けてくれたじゃないか。
私はそう思った。
そして、洗礼を受けて、クリスチャンになることを決めた私は、アメリカにいる友達に相談した。
彼女の神さまとの付き合い方は、非常に地に足ついていて、ちゃんと実践していて、私は好感を持っていたからだ。
一言でキリスト教と言っても種類がある。
自分に合いそうなのはどこかな?と。
友達は、私の考えに近いのはこれだろうとあたりをつけてくれた。
ただ、残念ながら、それと全く同じ宗派の教会は、日本にはなかった。
それで、そこに近い宗派の教会に行ってみた。
そこは違った。
他も行ってみたけれど、どこも違った。
そこで、私はゴスペルの先生のことを思い出した。
彼なら、たくさん教会を知っているし、私のことや考えもよく知っているから、合うところを教えてもらえるかもしれないと思った。
私が心配したのは、洗礼を受けるための勉強会で、牧師と喧嘩になることだった。
先生は、ちょうど一年前から、家庭礼拝を始めたので、よかったら来てみますか?と誘ってくれた。
それが、私が、今、通う音楽スタジオの教会だ。
ジーザスが、私に用意してくれたのは、音楽スタジオだった。
私は、ホッとして、やることがキザだわねと思った。
ジーザスが、クリスチャンになると決めた私に最初にしてくれたことは、私をプレイヤーに戻してくれたことだった。
二十五歳の私が絶望に落ちた理由を、ジーザスは、私の人生から取り払った。
プレイヤーとして奏でる音楽が、私の人生に、戻ってきた。