ミサンガを編む午後
中学時代(と高校時代の半分くらい)の私の家庭科の課題は、授業中に作ったところ以外は、ほとんどが母の作品だ。
当時は、今と異なり、男子は技術、女子は家庭科と分かれていた。
一学期だけ、家庭科と技術が入れ替わったが、男子と女子は別々に授業を受けた。
やがて大人になった後、変わった時代の中で、家事をなぜやらない!と突き上げられることになった男子たちは、少々気の毒な年代ではある。
学校も共犯になってすり込んだのだ。
家事は女性の仕事です、と。
ともかく、私の家庭科の課題はほとんど母がやった。
母とは、喧嘩していることが多く、私は頼むタイミングを外しては、課題の提出日にいつも遅れていた。
そのため、家庭科の成績は、いつも2だった。
母は、娘に家庭科の才能がないと見切っていた。
母が娘に望んでいたのも、それではなかった。
我が家の教育方針は、質実剛健、個性尊重、なんでもいいから、自立して自分で食えるようになれであった。
また、母は、合理的な人なので、無駄なもんは無駄と割り切っているところがあった。
彼女自身は、子供の洋服は縫うわ、おやつまで作るわ、ついには振袖まで縫い上げた非常に家庭的な人だ。
そのため、私が「これやって」と言って、母が断ることはなかったが、「どうしてもっと早く出さないの!あなたの作りかけにあわせて下手くそに作るのは難しいのよ!」と、いつも怒っていた。
技術に変わった一学期だけは、私は嬉々として課題に取り組み、その時作ったお盆は、30年以上経った今もまだ、実家で活躍している。
美術の陶芸で作ったツボと共に。
男子がよかった、私もパジャマじゃなくてラジオが作りたいと思ったのを覚えている。
母もよく言っていた。
「あなたは、男の子に生まれていたら、もっといろんなことが楽だったわねえ。」
パジャマ作りの授業中、私は、パジャマの生地だけ目の前に広げて、手元で隠れてせっせとミサンガを編んでいた。
長い付き合いのいつもコーヒーの匂いがする先生は、もはや、何も言わなかった。
当時、ミサンガが流行っていたのだ。
当時は違う名前だったが、ともかくつけていて切れると願いが叶うのだ。
私はせっせと真剣にミサンガを編んだ。
間違えると模様が狂うので、集中しないといけなかった。
作業台の向いに座っていた友達が立ち上がって、先生のところに行った。
そして、「先生、襟、つけていい?」と聞いた。
パジャマは襟なしを作ることになっていたが、型紙には、襟もついていたのだ。
「いいわよ。襟をつけたらかわいいわね」とコーヒーの匂いのする先生は言った。
私は、「かわいい」に反応した。
ならば、私のパジャマにも、襟をつけよう。
私は、先生のところに行った。
そして、「私も襟をつけたい」と言った。
先生は、「いけません」と言った。
私は「〇〇ちゃんはいいのに?」と言った。
先生は、「余計な作業を増やしたら、さらに提出日から遅れるだけじゃないの」と言った。
私は、「えこひいき!」と言った。
先生は、「違います」と言った。
私は仕方なく席に戻り、再び、生地を目の前に広げたまま、ミサンガの続きを編みはじめた。
という午後があったという話。