つづき。願うこと、信じること。

主の祈りは、信仰抜いて眺めても、非常によくできた構成だと思う。

信仰についても、よくできた仕組みだと日々感心しきりだ。

なぜに、キリスト教、その他一神教をベースとする文化圏の国が反映し続けてきたかは、最近はわかるような気がする。

願う力、信じる力を最大限用いているからだろう。

(人間の願いだけを優先したのが、現在だから、それがよかったかどうかはわからない。人間が何を望むかにかかっている時、人間がどのようであるかは、大きい。神さま、なんでも許してくれるでは、この先はすまないだろうと思う。望みが変わらない限り。)


同時に、全ての人が信仰では救われていないという歴然とした事実がある。


個人的には、個人の人生レベルでは、神さまというメタファー的なシンボルと信仰という抽象概念的なメタファーに、各個人がつけたフレーム(世界観の枠)と、個人が自身の体験や人生とそれをどのように絡めているか、信仰をどのように用いているかに違いがあるような気がしている。


内的にだけ神さまと関わり、外的な体験を通じては、神さまを体験しない人もたくさんいる。

精神安定剤として用いている人もいる。

一言で信仰と言っても、スタイルは様々だ。

どれが正解ということもないけれど、精神安定剤としては、私個人は、内省型の仏教、自然崇拝の神道の方が整っている感じがする。

だから、あんまり日本ではキリスト教が流行らんのだろうという気がする。


強く願うことは、これまでの日本型社会では、時に生きにくい事態を生んできたから。

最近、そんな場合じゃなくなってきたので、変わってきてる感じはするけれど。



キリスト教がそれらと大きく違うのは、そこに、初期段階で、社会の存在があることだ。

社会との関わりの中で、ジーザスは活動している。

弟子にも、社会に出て行け、社会と関われと指示している。


この信仰が持つ社会性は、キリスト教の大きな特徴だと、個人的には感じている。

よかれ悪かれ。



あとは、信仰の効果の違いは、好きで信じてるか、好きじゃないものを信じてるか。

好きなもんじゃないと、しんどいだけだと感じる。

私が、他人の信仰には興味がなく、好きにすればいいやんと、誰にもキリスト教をすすめない理由のひとつはこれだ。

自分で考えりゃいいじゃん。

自分のことなんだし、自分の人生なんだから。



そして、救われるから信じるは、救いを求めない人にはつまらんということを、私自身がよく知るからだ。

キリスト教的救いは、いわゆる救いとは意味が違うが、誰が救われてるかは死んでみるまでわからない。

死んだ後のために生きることに、私自身は全く興味がなかったし、今もない。

今は今のことを考えるのに忙しいので、死んだ後に考える。


心は、神さまでなくても救える。

私のことを、たくさんの人たちが救ってくれたように。

そして、必ず、最後は、自分で救える、人にはその力があると、私は信じている。(でなきゃ、セッションは続けてこなかった。)



しかしながら、主の祈りは、私は薦める。

これは、信仰抜いてみても、よくできてる。

言葉の力が強い。


ただし、最初の一文の関係で、全員は使えない。


だから、私は、この文章を誰でも使えるように説明することにした。

説明できる。


すでに、私は、この数年、勉強していた。


ほんとに、よくできた流れだ。

願いを叶えるために必要な要素の全てを、ジーザスはおいていってくれた。


ありがとう!

起きる順番が違ったら、わからなかった。