見えていなかったこと

中学三年生。
卒業間近になり、サイン帳が周囲を回りはじめた。

サイン帳とは、A5サイズの白紙の画用紙がファイルに閉じられたもので、メッセージを書いて欲しい人に一枚ずつの画用紙を渡して、メッセージを書いてもらうのだ。

私は、早く高校に行きたかったから、卒業するのが待ち遠しくて仕方なかった。
私にとって、中学時代はつまらなかったし、しんどかった。
友達はいたが、一度手痛い目にあってから、自分が本当に心を許していた人はいなかった。


「楽しいことなどなかった」と、私は思っていた。


それでも、私もサイン帳を配った。
みんなが配っていたからだ。

当時の私は、みんなと同じであることに細心の注意を払っていた。
目立たぬように。


やがて手元にサイン帳が戻ってきた。
私はそこに書かれていたメッセージを見て、不思議な気持ちになった。

私の記憶では、私は、不機嫌な顔をして毎日過ごしていたはずだった。
だって楽しくなかったんだもの。


しかし、そこに書かれている私、他人の目に映っていた自分は、どうも違う様子だった。

Yちゃんは、いつもニコニコしていた。
Yちゃんの周りは雰囲気が優しくてほっとした。
Yちゃんの笑顔が好きだった。

ついには、にこにこしているYちゃんに憧れていたが、気後れして話しかけられなかったというものまで登場した。


はい?と、私は思った。

私は、いつもニコニコしていた?
あれ?


中学三年生なりに、私は考えた。
そして、思った。

どうやら、私の記憶には、嘘があるかもしれない。

「ず〜っと」「いつも」つまらなかったわけではないかもしれない。


これが、私が、自分の「記憶は怪しい」と最初に感じた体験だ。


今、振り返ってみると、中学生といえども私は私だ。
笑わずに暮らせたはずがない。

しかし、中学時代の笑える記憶を探すことは、今でも非常に難しい。
今の私と当時の私に違いがあるとするならば、脳が大人になっていないということと、自分が自分を好きではなかったということだ。


私のものがたりにおいて、中学時代が果たす役割は、「自分のことを好きではない自分」「つまらない人生」で固定されてしまい、長らくの時を経た。

けれど、記憶は修正できる。

新しいものがたりに命を与えてもいいかもしれない。

そこにいるのは、大人になろうと必死な女の子と、がむしゃらに子育てし子供に振り回されるひとりの三十代の母親、それから、家庭環境が複雑な友人たちだ。

その友人達全員が、自分と同じように、中途半端な成長過程の脳みそを抱えていた。


おかしなことが、起きなかったわけがない。