天国のからくり:始まりの場所
なぜ、私の体が、自分は天国にいると判断したか、その理由は私にしては早くわかった。
朝晩、私がするお祈りだ。
主の祈り。
私が朝晩それを祈るのは、一に快適、二に快適、三四がなくて五に快適だからである。
敬虔なクリスチャンだからと嘘をついてもいいが、この場合、嘘は役に立たない。
そもそも最初に毎朝唱えることにしたのも、礼拝の時に、そのお祈りをすると体が温くなることに気がついたからだ。
私は、快適なことは、すぐに生活に取り入れる。
ともかく、そのお祈りをすると、体がポカポカする。
最初は胸のあたりだけだったが、近頃では、肩から背中にかけてまで温もりが広がる。
このお祈りの開発者のジーザスは天才だ。
あ、神さまか。笑
その文言の中に、みくにを来らせたまえという一文がある。
ようは、天国を寄越せと言っている。
私は、毎日、毎日、それを朝晩ぶつぶつ呟いていたのだ。
この数ヶ月。
何度も書いているが、神さまとは願いを叶える存在だ。
毎日、毎日、天国を寄越しなさいよとしつこくしつこく要求してくる子羊に、天国の感覚を寄越したのだろう。
別の言い方をしよう。
私は、神さまに願えば必ず叶うという刷り込みを自分にした。
そして、願った。
だから、叶った。
シンプルな意識の仕組み。
見えない天国ならば、神さまはいつでも与えることができる。
信じりゃ救われる。
だから、別の言い方をすれば、これを、信仰と言う。
この場合、言い方はなんでもいい。
私はジーザスは好きだが、私の信仰は、特に厚くない。
こういうことをブログに書くのも、そうすれば黄色いバスを走らせてくれると、ジーザスがいうからである。
そう聖書に書いてあった。
ジーザスは、目撃者がいるところでしか、奇跡は起こさない。
だから、みなさん、目撃者。
全部、ジーザスのおかげ!神さまってすごいんだから!と言いふらせばよいだけだという、下心とヨコシマの塊、それが信仰薄き私だ。
(今のところ、いいことしかないから、ジーザスは、別にそれでいいらしい。)
ともかく、非常によくできた仕組みが、すでに2000年前に存在したことに、私は驚く。
これ、今の流行よ。
満たされている人の願いの方が叶いやすい。
だから、世の意識の流行は、しばらく前から、アウトカム志向だったり、幸福であることの効果に移り変わりつつある。
先に満たされた感覚を作るところからはじめる。
私が使うクリーンランゲージ&シンボリックモデリングもそうだ。
願いを叶える神さまは、願いを叶えるために一番必要なもの、ゆらがない満たされた気持ちという天国を、まず最初に与えるのか!と、私は感心した。
三ヵ月。
朝晩、短いお祈りを、気持ちいいなあと思いながら祈る。
それだけで天国だと判断する自分の体の単純さにもびっくりするが、同時に、満たすとは、なんと簡単なことかとも思う。
つまりは、この段階に至るのには、苦労は必要ないよ、話はそこからだということだろうけれど。
天国は、終わりではない。
そこは、始まりの場所だと、私は理解した。