望みのクオリティ

土曜日の夜に、私が語った話がもうひとつある。


話していた友人は、社会的に活躍している人だ。

音楽を通して人を励まし、支え続けている。


私の彼に対する評価は、わがままで自分勝手な人だ。

悪い意味ではない。


世間の人からは、彼はすごいとかえらいとか評されている。

私の目に、彼がそう映ったことは一度もない。


好きなように、やりたいようにやっとんなというのが、私の彼への感想だ。

彼と働く人は、振り回されて大変だろうと、私は彼の部下に多少同情すらしている。



ただし、彼はやりたいように好きなように、わがままに自分勝手にしているが、彼がすることで、不幸になる人はいない。


それは、彼の望みに、他人が不幸になることと、自分だけが幸せになることが含まれていないからだ。


もしも、彼の望みが違えば、彼の周りは大変だっただろうが、彼の望みがそうではなく、人が自由に解放されていくことなので、彼が好き勝手にやればやるほど、人は自由に解放される。



ようは、望みのクオリティの話だ。



問題が生まれる時、そこには、望みに問題があることが多々ある。

人はなぜだか、叶っても、一瞬だけ満たされてそのあと大変になることや、絶対に不可能で叶う必要がないから叶わず不満だけを生み続ける望み、叶うと問題が生まれることを望むことがある。


幸せをどのように理解しているかの違いもある。

これには正解はないから、ややこしい。



自分の望みが、自分を大変にしていることに気づかないことも多い。


望みのクオリティは、なかなか奥が深い。



友人の彼の望みのクオリティは、私好みだが、私にとって単に彼は自分の望みを叶えたい、望みに対して素直なだけの人なので、私が彼をすごいと思うことは今後もなかろうと思う。


望みには大小も優劣もないので、彼がそれらを望んだことは、単に彼自身の嗜好(好み)の話だ。


「だって、わがままで自分勝手なだけでしょ?」と言った私に、彼は、顔を赤くしてにやにや苦笑していた。

当たりだったのだろう。